底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

不自由を自由に選べる時代

自由がすぎる時代

自由になりたい、人は常にその願望を奥底に抱えているはずだ。歴史的に見ても明らかであり、今この時代はどう見ても今までで一番自由な時代であろう。こんな底辺な奴がネットに自分の好き勝手に書ける時代ですよ。すごすぎますね。だが、ここに来て自由になりすぎたためか、いよいよ人は自由を拒むようになった感じがする。或いは逆に、精神が潔癖になってきたから、少しの不自由さえも受け入れられなくなっているのかもしない。

 

 

拒否するって選択肢が消えている

例えば、人に自分が行きたくないなと思うようなイベントに誘われた時、「ごめんね、行かない」という一言が言えない。たぶん相手が好意で誘ってきていることが分かるから、それがプレッシャーとなって、その日は用事があるなどと言って誤魔化すか、仕方ないので実際に行くか、の二択しか選べなくなる。素直に断ること、自分に正直であること、自由に自分を体現することを自らに拒んでいるのか、それとも潔癖な精神には、そんな選択肢がそもそもないのかは分からないが、とにかく不自由な方に自分の足を進めたがるのである。それでいて、その不自由に満足しているという様子でもない。「行きたくなかったのに」とか「誘ってくるなよ」とか、そんな愚痴がネットにはいくらでも転がっている。

 

 

言葉が軽い

「強制」や「押し付け」なんて言葉も、最近は随分と軽いなと思う。「そうだよね?」と聞けば、それだけで同意を強制したことになる場合もあるらしい。「いいえ、違いますよ」と自分の口で言うだけの選択肢が、やはりないのだろう。だから、相手が言いづらく「させている」なんてことになるのかな。「そうした方がいいと思うよ」と助言するのも、助言をした時点で押し付けと捉えられこともあるようだ。その助言の通りに行動するかどうかは全くもって自分の自由であるのに。やはり助言を無下にしてしまうことに多少の罪悪感を抱いたりするからなのかもしれない。知らんけど。

 

 

でしょう

風潮や世間体、他人の意志、そういうものとは無関係に常に自分は自由である。ちょっとの抵抗があるくらいのことでは、全く自分の自由は阻害されない。嫌ならただ逆らえばいいのである。逆らえるのに逆らわないで、従ったのは自分自身なのだから、そんなのはちっとも他人のせいにはできない。自由とエゴは紙一重だ。たぶん今はそのエゴがとことん悪いのだとされているのだろう。だから、エゴを隠して不自由を選ぶ。そうすれば悪いエゴを捨てた綺麗な自分でいられる上に、その不自由を自分以外の誰かのせいにできる。一石二鳥なわけだ。で、その二鳥を得た自分はさぞ幸せなのでしょう…。

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