底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

主語はなぜ必要なのだろうか

主語はなぜ必要なのだろうか

大胆に問を掲げてみる。ズバリ主語はなぜ必要なのだろうか。何かをしているならそれをしているところの主体は常に最初から私でしかありえないのは自明な事実である。何かを話しているなら話しているのは常に私でしかありえない。他人が話している場合は私はそれを聞いているのだから、聞いているのはやはり私でしかありえない。何かを食べているなら食べているのは常に私でしかありえない。他人が食べている場合は私はそれを見ているのだから、見ているのはやはり私でしかありえない。主体とは最初から世界に一つしかないのだから、わざわざ「私」から言葉を始める必要性はないのではないか。自分が話している最中に話しているのは誰なのかと疑問に思うことは決してない。聞いている時も食べている時も見ている時も同様、何かをしているのは常に全て私である。

 


身近な人のために

主語は自分のためにあるのではないのだ。自分が主体を間違うことは万に一つもないのだから、主語など自分にとってはまるきり意味を持っていない。私に主語を要求しているのは他人なのである。もし主語がなければ、他人は私を他の人から区別することができない。そこには自明的に分かる私と、それ以外の区別しかないので、他人などは全てひとまとまりで同じになってしまう。私的には世の中はそれで十分だと思うけれど、やはり一般的に第二人称がないのは大変に不便である。身近にいる人に呼び名をつけ「あなた」として、他の他人から区別するのでなければ、いちいち直接にその人の肩を叩いたりして話しかけなくてはいけないが、もし主語を与え名前をつけたのなら、後は名前を呼ぶだけで、相手は自分が話しかけられているのだと分かってくれる。便利なことこの上ない。

 

 

人の間と書く字のごとく

他人がそれを必要としているから、私には主語がある。私という人間の実体とはその程度である。行為の主体としての私は他の如何なる事象とも独立に、確かに存在しているけれども、私という「人間」の存在は、まさに人の間と書く字のごとく、他人との間において生まれているのである。つまり、私という人間には本質がないのだ。それは他人からの要求であり、世界に最初からあるものではない。もちろん全て他人から望まれたままの人間になるわけではないが、その始まりは確実に他人からの影響なのである。

 


苦しみを軽くするために

人生の苦しみの多くは、自分が「この人間」として存在していると思い込むことに由来している。「なぜ自分はこうなんだ」というような問がその典型である。「この人間」が存在するのはあくまで他人からの要請であり、主語のないただの行為の主体としても自分は存在しているのだという視点を持てたのなら、或いは少しばかりその苦しみも軽くなるのではないだろうか。

f:id:kabiru8731:20220408000218j:image