底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

配慮はする側の親切

1

配慮というのは、それをする側の親切と美学であって、される側の権利ではない。履き違えてはいけないところだと思う。そこに道徳を持ち込み、自分たちは配慮されなければならないと主張するのはとても醜いことであって、偏に人としての品性が欠けているのではないだろうか。配慮して欲しいなら、きちんとした態度でお願いをすればいい。それが嫌なら配慮されるのを諦める。配慮はされたい、でも自分から頭を下げるのは癪に障る。だから正しさを主張し、それを自分の権利として、さも相手の義務であるかのように振る舞う。下劣そのものだろう。

 

 

2

配慮は決して当たり前のことではない。それはいつもする側の良心と正義心に支えられている。配慮をする側にはメリットなどない。ただただ相手のためになればと思って、それをやっているのである。もちろんだからって、配慮される側がそこに謝意をもつ必要はないけれど、しかし、「べき」を主張していくのは、やはり以ての外だろう。図々しいにも程がある。

 

 

3

それに関連して、配慮することを褒めるというのも誠によくない。配慮しないのを貶すのと、配慮するのを褒めるとはつまり同じことの裏表であって、一見したところ褒めは良さそうでも、それは配慮に道徳を持ち込もうとする勢力へ加担した、同様に下品な行為である。そもそも配慮は個人の信念や人間性に基づいた極めて個人的な行為である。それに関係しているのはせいぜい受け取り手までだ。当事者間でのやりとりにおいて完結しているのである。第三者がそれを良いか悪いかと評価するそれ自体が偏に蛇足であり、正当な意味を成していない。本来そこにあるべきなのは、する側の意識と、される側の感受だけである。

 

 

4

配慮は別に素晴らしいことでもない。したい人は各自の価値観や信念に基づいて行えばいいし、したくない人は別にする必要などない。されて嬉しかった人はただ素直にその喜びを相手に伝えればいいし、されたい人はされたいと訴えればいい。それだけのとこである。配慮を美化し持ち上げることは道徳を介入させる。道徳が介入すれば、そこに正しさが入り込む。個人の親切や美学に基づいて行われていた全てが、して当然の義務に成り代わり、される側もそれ故に態度が尊大になっていく。酷く残念なサイクルが始まってしまう。配慮がこの世にたくさんあるのは素晴らしいことだ。でも、それを素晴らしいともてはやしては、事態が変質してしまう。素晴らしいと思うなら、自らそれを行い、逆に誰かにされた時には精一杯感謝を伝える。それだけで十分なのである。

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