底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

何もしていないから悪いということもある

1

「何もしていないから自分は悪くない」という言葉がある。何もしていないのだから自分は端的に関係がないといった意味なのだろう。何もしていないのだから、何も影響を及ぼすはずがない。それがどうなっていようとも、自分がやったのでないことだけは確かだ。だが、これは本当だろうか。人にとってそもそも「何もしていない」とは何を意味するのか。例えば、今日という一日の中で自分は何もしていないと言える瞬間はあったかどうか。ソファで寛いでいる時、ベッドで横になっている時、そんな一見何もしてなさそうな時でさえ、人は寛いだり、横になったりしているのではないのか。

 

 

2

人にとって、何もしないというのは即ち、何もしないことを「する」なのである。文字通りの何もしないは我々には実現不可能だ。常に何かをしている。それが動く物と書いて動物である我々の運命だろう。するともはや「何もしていない」という言葉は免罪符としては使えない。何もしていなくとも、何もしていないことはしているのだから、それは一つの自分の選択であり、そのものに対する自身の態度である。何もしていないからこそ悪い。そんな状況も往々にしてあるのだ。この世には何かをしなければいけない時が存在し、そんな時に何もしないというのは偏に逃れているだけである。

 

 

3

社会の様々な問題に対して、どうしてそうなってしまっているのかと考える時、その一因には自分が何をしていないからということがあるかもしれない。もちろん自分一人の力ではどうにもならないものばかりではあるが、もしかしたらみんながそう考えているから誰も何もせず、誰も何もせずにいるからこそ現状そうなってしまっているのではなかろうか。

 

 

4

自分が目にしている世界の全ては自分と関係している。世界と自分とは常に互いに影響し影響され、その形を変え続ける。その中で何もしないという選択をとるとは、つまり世界を放ったらかしにするの意味であり、それは自分とは関係がないと示す無関心な態度である。実際には関係はあるのだが、見て見ぬふりをするということだ。何かをすることには、その行為の責任が付いて回るだろう。誰だって、自分が行ったことの結果を引き受ける必要がある。それは何もしていない時も同じなのだ。何もしなかったのなら何もしなかった結果が自分自身に降りかかるだけである。何もしていないのに、どうしてこうなったという問の立て方は成立しない。それは偏に自分が何もしなかったせいである。

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