底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人に対する判断をどのようにするか

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本人の意志によらない生まれつきや育ちの影響で、後天的には中々変えられない部分でその人の何かを断定するのは理不尽であり、偏にそうするべきでない。という言説はとても正しいように思う。理由は言うまでもないが、単純にそれが本人の望んだものではないからだ。しかし、この言説は「だから、そうすべきでないのだ!」と直ちに主張していくには問題を孕んでいる。それは「本人の意志によらない生まれつきや育ちの影響で、後天的には中々変えられない部分でその人の何かを断定する」こと自体が、本人の意志によらない生まれつきや育ちの影響で、後天的には中々変えられないまさにその部分によって為されている場合があるためだ。




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だから、そうすべきでないとの主張は、「そりゃそう」なんだけれども、じゃあ実際問題どうすればいいのか、という壁にぶち当たる。少なくとも、これは世界中の誰しもが「その通りだ」と思えば解決するような類の話ではない。誰しもがその通りと思っていたとしても、それとは無関係に現実に蔓延ってしまうところがまさに問題なのである。だからこの問題を解決するには、ただそうすることの正当性を主張していくだけでは足りない、何か別の角度からのアプローチが必要なのである。




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もちろん、理想としては本人の意志によっているところはどこなのか、に注目するのがいいだろう。本人が現に自分の意志でしようとしていることは何なのか。本来はそこだけがその人を表していると言っても過言ではない。だが当然意志というものは何もベースのないところから立ち上がるわけではない。目の前にある何かしらの選択肢から、ある一つを選ぶという操作が意志であるから、意志はどうしても選択肢の内容に引っ張られる。それはつまり、たとて本人の意志で選ばれたものだとしても、多少「本人の意志によらない生まれつきや育ちの影響で、後天的には中々変えられない部分」がまた関わるということ。だから、どこからが本人の意志によっていて、どこからがそうではないのか、その線引きは実は果てしなく難しい。




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とすると、我々はどのようにして他人を判断すればいいのか。個人的な答えは、断定を暫定に変えることだ。他人に対する全ての判断に「(仮)」をつけ、適宜更新なり改変なりをしていく。絶対的な断定はせず、軽々しくそれを口にしたりしないで、慎重に柔軟に他人を見ていく。そして自己反省をすること。自分の意志で変えられる部分に対して怠けていないか、常に点検をしていく。そうすればこそ、その言説は徐々に世の中に体現されるだろう。