底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

理不尽な好き嫌いをそのまま生きる

好き嫌いは理不尽

好き嫌いは誠に理不尽である。何かを好きになることも、何かを嫌いになることも、そこに「正当」な理由は存在しない。どんな理由を持ってきても、好き(嫌い)にならないこともやはり有り得たからだ。現実において、人はただ自分自身に快をもらしてくれるものを好きになり、自分自身を不快にさせるものを嫌っている。つまり対象がどんなものであるかは全然関係ないのである。全ては自分の内なる感覚によって決まり、それ以外には何の判断基準もない。他の理由は好きや嫌いになったその後で、付け加えられているだけである。

 

 

正当性の偽装

そうであるにも関わらず、人は偉く自分の好き嫌いを特別視する。好きなものには好きになるだけの「価値」があり、嫌いなものには嫌いになる「べき」理由があるかのようにそれを捉える。あくまで自分は一定の基準に従って、「正しく」何かを好きになったり嫌いになったりしているのであり、決して無規則的にそうしているのではない。自分の感覚ではなく、対象が持つ何かしらの要素こそが自分を好きや嫌いに「させている」のだと物事を逆転させて、そこに正当性を偽装するのである。だから、自分の好きなものを他人が否定すれば快くは思わず、自分の嫌いなものを他人が褒めていたら怪訝な目で相手を見つめる。「正しさ」がこびりついているから、自分と相手のどちらかが「間違っている」こと必至なのである。

 

 

嫌いにさせたなんて言い方に逃げてはいけない

特に人を嫌う場合にこのことに留意しなければいけないと思う。相手に何か「嫌われるべき」要素があるから嫌うのだとする主張は偏に嘘であり、ただの自己正当化である。人は理不尽に他人を嫌うものだ。気に食わないとか、たまたま機嫌が悪かったとか、自分の趣味嗜好と合わないとか、とにかく自分が不快に感じたというそれだけで簡単に人を嫌ったりする。その自分の卑劣さを隠さずにきちんと見つめて受け止めるべきである。相手が何か悪いのでない限り、自分は人を嫌ったりしないなんていうのはただの思い上がりな幻想であり、人間は全くそんな崇高な存在ではないのだ。

 

 

誠実な卑劣

好きなものはただ好きであり、嫌いなものはただ嫌いである。そこには如何なる価値もなく如何なる正当性もない。いや、あるのだとしても、それは自分自身にしか適用できないものだ。だから好きならただ好きを追いかければいいのだし、嫌いなら単にそれを避ければいい。わざわざ「正しい」理由をつけ他人に向かってそれを主張するのは全く必要のないことである。価値づけや正当化などせず、そのままの理不尽な好きや嫌いを大胆に生きる。それが卑劣な人間にとってのせめてもの誠実さというものだろう。

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