底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の全てを引き受けられる大人になりたい(手遅れ)

三種類の行為

何かの行為をやることはおよそ三種類に分けることができる。やりたくてやったこと、やりたくないけどやったこと、無意識でやったことの三つだ。その三つのやったことが悪い結果を引き起こした場合を考えて、さてどれが一番素直に頭を下げられるだろうか。やりたくないけどやったことがたぶん一番だめだな。それは半分他からの強要を意味しているので、悪い結果を引き起こした時にはすぐ「ほらだからやりたくないって言ったじゃん」という思いが湧き上がるに違いない。無意識でやったことは無意識であるが故に、これも少し難しい。振り返った時にきちんとその行為を改めて認識し、自分のせいだと強く思えなければ、形式的で嘘くさい謝罪になってしまうだろう。やはり、やりたくてやったことが優勝かな。だってやりたくやったのだもの、言い逃れはできないね。




報われなかった時どうする

やりたくないけどやったこと。大人であれば誰しも少なからず経験する。仕事ではもちろんのこと、友達や家族などの関係でも、完全に自分のやりたいことだけをやるというのは、普通には無理である。お互いに多少の我慢をしてその代わり多くの喜びを分かち合う。人間関係とはどれだけ上手くていってもそういうものだ。たぶん。知らんけど。でも、そうだとしたらこのやりたくないけどやったと頑張った自分の気持ちはどうしたらいいのだ。いい結果に繋がりそれが報われたときはいいのだけど、悪い結果になったらとにかく謝って、気持ちはどうにか我慢するしかないなんてそんな…ないですよね…。




理想と現実

無意識であれ、やりたくなかったのであれ、やむを得ない病気や脅迫などの犯罪行為をされているのでない限り、「やった」のだから、その結果を引き受ける。自分にはとてもできることではないが、スマートな理想の大人像とはそのようにあるのだろう。私にそれができないのはきっと、「やった」という結果から物事を見ているのではなく、「やりたくなかったのに」「無意識だったのに」という自分の思いや状態の方からそれを見ているためだ。他人にはそんなこと全く関係ないと知りながら、それでも...だって...といつまでも子供のようにごねているのである。




だめかな

やりたくてやったことの結果だけを引き受けたいと思う。それはわがままなのだろうか。やりたくなかったことでも結局はやったんでしょ、無意識でもあなたがやったということに変わりはない、とは返す言葉が見つからない程に正論である。いやでもしかしだって、それは一面には「仕方のない」ことと言えないかな...?だめかな...。





ただの言い訳よ

はい、ですよね。すみませんでした。全てを引き受けられるように精進します...。