底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自由と幸せと健康と

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退職する日がおおよそ決まりました。有給消化も込み込みで8月の半ば頃になりそうである。本当は7月で有給を使い切って、7月末でやめようと考えていたのだけど、職場の人手不足もあって、自分的にもお世話になったという気持ちがあったから、新しい人が入って簡単に慣れるまでは残る形となった。終わると既にはっきりわかっているから、まぁあとはもう誤差だね。残り実働日約一ヶ月で、私は無職になる。既に何度も経験済みであるので今更思うこともない。早くその日が来ないかなと願うばかりである。やはり仕事から解放された直後の無職期間ほど、人生を楽しめる期間はないですからね。だってやめたばかりだからお金の心配はないのに、全ての時間を好きに使うことができる。こんなの人生の理想系でしょう。何をしたっていいんだと、思い馳せるだけでワクワクする。

 

 

2

人がいつ自由を体感するのかといえば、それは自分を縛り付けていた不自由から解放された時である。そこにいつもあるだけの自由は、ただただ当たり前として見なされるだけなので、自由だ!という実感を持ってたち現れることはない。不自由から解放された瞬間にだけ、人は自由を豊かに感じ味わうことができるのである。

 

 

3

幸せや健康なんかもこれと似ていて、不幸や不健康から解放された時、人は一番に自分の幸せと健康を実感する。だけれども普段当たり前にある時にはやはり意識されない。自由も幸せも健康も、不具合が解消された時にしか実感されず、その喜びを噛み締めることができないのは、自由も幸せも健康も、その本質が「不〇〇でない」という二重否定によってでしか成り立たないものだからである。つまり、どれもそれ自体に何か内容があるのではなく、否定の状態を更に否定することによって初めて内容を獲得しているのだ。 

 

 

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自由とは不自由でないことである。幸せとは不幸でないことである。健康とは不健康でないことである。こんな夢のないつまらない定義は誰も望んでいないかもしれないが、事実としてやはりそうだと言わざるを得ない。実際解放された状態が長く続けば、もう人は自分が自由であることも、幸せであることも、健康であることも段々と忘れていく。そして、また次なる自由と幸せと健康を求めて、その辺に転がっている不自由と不幸と不健康を探しては、そこから解放されることで実感を得ようとする。この道には終わりがない。しかしもし仮に、人が最終的に行き着く究極の自由と幸せと健康があるとすれば、それは一体どんなところなのだろうな。

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