底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

やるべきことをやりたい

こんなに自由でいいのかしら

時々自分の人生の自由が自分に与えられていることに驚きを感じる。自分にある必然性を全く感じないからだ。実際今だって全てが自由なのではない。明日の食事や寝床を望む限り、私はお金を手に入れる必要がある。だがやはり大方の自由が自分には与えられている。身体を動かす自由、どこにでも好き勝手に行ける自由、仕事以外の時間を基本全て自分の思い通りに使うことができる。これは実は何かとんでもないことなのではないかとしばしば感じるのである。

 

 

与えられた人生は誰のもの

自分の人生は誰のものだろうか。もちろん自分でしょ!と一片の曇りもなくそう思うことは私にはできない。私にとって生とは一方的に押し付けられたものだからだ。全てはあなたのものだ、自由に使ってもいいのよ。と言われたとしても、何をしたらいいのやら全然検討がつかない。私は自由を「与えられた」に過ぎないのである。だから生活の中でも私は自分のしたいことが分からないので、できることを優先して探してしまう。何かの義務や拘束や強制を自らに望んでいるのである。

 

 

自由がありすぎる現代

人生の自由とは「ある」ものであり、同時に「あらねばならない」ものでもある。自由と不自由とはいつも隣り合わせで、私たちはその間をバランスをとりながら生きている。ところがこの頃の社会はすっかり不自由なものは姿を消している。神であったり、共同体であったり、そういったしきたりやしがらみに囚われることなく、ほとんどの人はもう自由に自分の手で人生を決定していける。だが個人的にはこの状況は手放しに喜べるものだとは思えない。なぜなら、やはり生まれは完全に受動的だからだ。自分によらずに誕生したものをどれだけ自由で埋めつくしても、そこには必ず余白が残ってしまうと思うのである。

 

 

ほどほどの不自由が必要

人生にはほどほどの不自由がなければならないと思う。ほとんどの人は既に仕事という不自由を抱えているが、これは生活の不自由であって人生の不自由ではない。人生の不自由とは精神的なものだ。つまり死ぬまでに自分は何をするべきなのかといった自らを律するための義務が必要だと思うのだ。昔は宗教の神や共同体の縛りがそれをやってくれていたが、今の時代それに替わるものは何も無い。だからやはりそれも、もう自分で見つけていかなくてはいけないのだろう。したいことだけを人生に敷き詰めるのは無理がある。人はしたいことがあって生まれてきたのではないのだから。義務は課せられるものだ。自分は何のために生まれどう生きていくべきなのかという問の方がまだ、したいことよりは見つけやすいはずである。

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