底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

健康とは何か

健康とは何か

shikouzakki.hatenablog.com

この前の体調不良以来、ずっと健康ということについて考えている。体調が優れない時、その症状は実に様々である。頭痛や腹痛などの痛み、胸焼け、吐き気、或いは単になぜかは分からないが身体が重く動くのが困難であることなど、本当に状況によって内実も大きく異なる。とにかく、調子が悪いと必ず一つの同じ状態に陥るというようなことは全然ない。だが、反対に健康はまさにそうであろう。健康には何一つバリエーションなどない。ただそうであるその一つだけを我々は健康と呼んでいる。つまり「何も不調がない」という二重否定の形でしか健康は存在していない。

 

 

健康には内容がない

健康それ自体に何かの具体的内容があるわけではないということである。健康であることはただ不調でないこととイコールであるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。調子がいいなと思うような時さえ、それは「いつもより身体が軽い」という比較によってのみ成り立っているのだ。だが、我々の人生の実に八割の活動はこの具体的内容のないものに支えられてこそ可能である。具体的内容がないにも関わらず、それは我々の人生の土台を担っているのである。

 

 

健康は最上価値であると同時に無である

身体が不調である時、健康ほど恋しくなるものはない。早くこの不調を取り除いて欲しい、早く健康な身体に戻りたい。本当に健康であるだけでいいから、それ以外は何も望まないから。そういう思いでいっぱいになる。だがいざ健康に戻ってみるとどうだろうか。健康は依然、その高価値な様を保っているだろうか。答えは明白である。もはやそれは見向きもされない。ただの当たり前となって意識に上がることもない。我々は平然とその上で様々なことに一喜一憂し、当然それが明日も続くものだと思い込みながら毎日を生きるのである。健康であるときには、健康とは「無」なのだ。

 

 

健康である時は健康であるときにできることをする

ない時には喉から手が出るほど欲しくて、ある時にはあると意識されることもない。健康とは誠に不思議である。それは一体我々にとって至極大事なものであるのか、はたまた取るに足らないものであるのか。たぶんどちらも正解であろう。だからこそ、二重否定でしか存在しないのである。健康であるときにさえ常に健康に気を配り、健康を維持するためだけに生きるのなら、それは却って不健康であると言わざるを得ない。健康である時には、他にやるべきことがある。明日にもそれが足元から全て崩れ落ちるのだという可能性に晒されているのだとしても、いやだからこそ、健康であるうちは健康にそれほど気を遣わず、健康であるうちにできることを精一杯しておくべきなのである。いつの日にか不健康に晒されても、やれる時にやり切ったのだと言えるために。

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