底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

死ぬまで人生を始めたくないので書くことは生活の一部であってはならない

無性に…

家を出た瞬間、夕日が目に突き刺さった。午後5時の目覚めである。昨日より少し暑い。今日も仕事はお休みである。無性にマックのポテトが食べたくなったので、今日はマックで執筆することにする。

 

 

充実するのってこわくね?

ブログを始めて10日、生活が以前と変わり始めている。そのことが少しばかり悔しい。私の毎日は虚しい。大方はもちろん私の能力のなさがそうさせているのだが、わざとそのように過ごしている部分もある。充実することが怖いので、今まで充実するチャンスを数回与えられてきたのにも関わらず全て手放してきた。

 

 

死ぬまで人生を始めたくない

なぜ充実するのが怖いかといえば、充実することによって人生が始まってしまうからだ。そうなれば、いよいよ自分の人生、つまりは生き方を真剣に考えなきゃいけなくなる。自分が底辺である現実に向き合わなくてはならないことが何より恐ろしい。だがもし人生を問い続けるなら、生き方には目を向けなくてすむことになる。なぜなら、人生という不思議を理解し尽くすことはありえないからだ。どんな過去の偉人であれ、人生の不思議に全て答えを出した人はひとりもいない。だから私は「どのように生きたらよいか」に移る前の「人生があるとはどういうことか」に永遠に留まっていられる。

 

 

あれれ?おっかしいぞ〜

しかしブログを始めてからというものの、人生を問い続けることの代わりに、書くことが生活の中心になってしまっている。本を読むのも、思索をするのも、全てが書くために行われている。明日はどんなネタを書こうか、これは書くことに使えそうだな、などなど。これはまさに私が恐れていた、(虚しさが伴わない)ただの充実した生活ではないか!

 

 

取り戻したい

元々このブログは虚しさを垂れ流すつもりで始めたものだ。同じく底辺をやっている仲間や、同じく人生に虚しさを抱えた人に出会えたらいいな、そのためにひたすら虚しい声をあげよう、と決めて始めたのに、虚しさを書くことで充実するというなんと本末転倒な…。底辺人間記録という名前でやっているのだから、生活の一部をお届けする、つまりは書くことは生活の一部ではなく、生活の枠組みから外れているからこそ、このブログには意味がある。今の課題はどうやったら書くことを生活から外せるかだ。

 

 

レッツラ検証

今のところ、もっとひとりで抱えきれないくらいの虚しさを持てば自然とそうなるのではないか?と考えている。書くことに執着しすぎなのかもしれない。書けない日は書けなくていいはずなのに、なぜか毎日書いてしまう。でもたぶんこっちは治せない。性格上、毎日書くか、何も書かないかの2択しか選べない。だからやっぱり無限に虚無な生活を目指すしかないのだろう。明日から頑張って虚無るぞ〜

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