底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

せっかく生まれてきてしまったのだから

生まれたことは奇跡or不運

生まれてきてしまった。やはり私はそのように人生を悲観する。生まれて今ここにあることは確かにある意味では奇跡であり、他に類を見ないほどに貴重なことである。だが、それは結局意味の与え方次第なのである。有難い、有るのが難しい。奇跡とはその事実にプラスの意味を付与しただけの言葉である。そこにマイナスの意味を与えれば、すぐさまそれは「不運」に成り下がる。有るのが難しいが文字通りありがたいことであるかどうかは、本人の捉え方なのである。




世界に歓迎されてこそ

生まれて来ないことを人は選べない。その中で人が自分の誕生を肯定するためには、この世界の役に立たなくてはならない。世界に歓迎され、自分は世界の一員であるのだという感覚を貰えてこそ、人は自分の生をポジティブに捉えることができる。その世界の形は人の数だけ存在するだろう。家族だったり、恋愛だったり、仕事だったり、才能だったり、趣味だったり、とにかく何でもいいが「自分はこのために世界に生まれたのか」と言えるものに出会うこと、それが重要である。




人生そのものは虚しいが人生の中には色々ある

しかし、どんなに肯定できたところで自分は死ぬし、人類もいずれは絶滅する。自分の人生の肯定を支えている足場もろとも、宇宙の時間から見れば近いうち全てが消えうせるだろう。そのことを思えば何もかも虚しいではないか。そして、その虚しさこそ、事実に基づいた人生の本来の形であろう。人生は完全に無意味である。その果てしなく無意味な世界に生まれることは、一体どうしたら奇跡になり得るだろう。人生の「中」に素敵な出会いや心躍る経験などのような奇跡があること、それらは本当である。だがそれはあくまで人生の「中」の話であって、人生そのものの話ではない。人生そのものを奇跡に変えられるようなものは何もない。どう奇跡であったとしても、死をもってその奇跡は必ず消えるのだから。




せっかく生まれてきてしまったのだから

生まれてきてしまった。その事実はもうどうにもならない。どんなに足掻いても私は既にここにある。だからもういっそのことそれをプラスに捉えよう、なんて風には思えないけれど、仕方のないものとして少しずつ受け入れられるようにはしていきたい。死ぬ時に後悔しない、その目標のためにも、ただ嘆いてばかりではいられない。死を持って全てが消えるのだとしても、今はこうして生きているのであるから、できることはまだ残っている。何をやったところで結局全てが虚しいのは変わらない。だが何もやらずに死んでいくのは、あまりに悔しいではないか。せっかく生まれてきてしまったのだから。

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