底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

幸せとは他人の金で食「える」焼肉

宗教の勧誘ではありません

人生幸せですか?と問われて、「はい!」と即答できる自信は私にはない。「不幸ではないですけど、幸せかと言われると微妙ですね」が正直なところである。

 

 

他人の金で食える焼肉が一番うまい

「幸せだ!」と確信する瞬間というのはある。人の金で焼肉を食えた時、仕事で感謝された時、駄菓子のあたりが出た時、面白い本を見つけられた時、私は幸せだと思う。しかし、だからといって、人生そのものは幸せだ、とは断言できない。少なくともそうは感じていないからだ。辛いことや悲しいこと後悔していることも私には沢山ある。それらがあったから今の私がある、なんてのは綺麗事か慰めの類である。経験しなくていい辛いことや悲しいことなど世の中には腐るほど存在している。でもだからといって私の人生は不幸だとは断言できない。少なくともそうは感じていないからだ。幸せな出来事があったから、不幸な出来事があったからといってそれは別に人生の幸不幸には直結しない。

 

 

全てのものはただあるだけ

思うに人生とはただ存在するものである。人生に幸せな出来事が多くても、それはただ幸せなことが多かったというだけで、人生が幸せという意味にはならないし、その逆もしかりである。幸不幸は人生の中の出来事を飾る言葉であって、人生を飾る言葉ではない。人生はただあるだけ、幸せもただあるだけ、不幸もただあるだけ。

 

 

考えるな!感じろ。

何が幸せか、何が不幸かを決めるのは私のようで私ではない。それは味覚と似ている。何が美味しくて何がまずいかは私が決めるのではない。私の味覚が決めることだ。幸不幸も同じである。私はただ自身の感覚に舵を任せて浮かんでいるだけに過ぎない。

 

 

幸せになりたいけど、なりたいだけ

幸せになりたいか?と問われれば、私は「はい!」と即答するだろう。しかし「じゃあそのために〇〇をしてください」と言われた瞬間に私は萎える。とことん萎える。何かをして幸せになるという本末転倒さに萎えてしまう。他人を強請って食べる焼肉はきっと美味しくないし、形式化された感謝はきっと嬉しくないし、大人買いで駄菓子に当たりがでてもきっと虚しいし、概要や口コミを参考に慎重に買った本はきっと面白く感じない。

 

 

誰も幸せになんかなれない

幸不幸とはとどのつまり運であろう。受動的だからこそ、そこに意味がある。考えてみれば簡単な話である。能動的に操れる幸福など幸福であるはずがない。幸も不幸も自分ではどうにもならないただ与えられたもの故に、感動や辛苦を生み喜びや苦しみになり得るのである。その意味で人は幸せにも不幸にも「なる」ことはできない。ただ幸せで「あったり」、不幸で「あったり」するだけである。

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