底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

精神のない赤ん坊に戻りたい

精神のない赤ん坊に戻りたい

何の根拠もないような話であるけれど、私は精神というのは若ければ若いほど良いと考えている。なんなら精神なんか本当はないほうが良い。良いというのはその方が自然だという意味である。つまりこの世で一番自然なのは生まれたばかりの赤ん坊で、成長するにつれて人はどんどん不自然に、言い換えれば人間らしくなっていく。それが悪いと言いたいのではない。別の観点から見ればそれこそが最も自然な人間のあり方で、私が言っていることの方がずっと不自然だ。だからこれは完全に好みで、あくまで私にとってはその方が自然で、私的に良いなと感じているというだけの話だ。

 

 

随分歳をとってしまった…

赤ん坊は絶対に死(という概念)を恐れないだろう。それは死を知らないからである。死を知り得ないからである。精神が歳をとるというのは、嫌にでも知った気になるものが増えていくことだ。何かを知っていく、何かができるようになる。そういうのを人は成長と呼ぶが、内実はただ知った気になったもの、できてもどうしようもないものが増えているだけだろう(死を知ることも、死なないことも人にはできない)。人は動物で、動物はただ生きているのが本来である。だが精神を持つとそうはいかなくなる。何が正解なのか、何をすればよりよくなるのか、どうしてもそういう価値を問うようなことに縛り付けられる。つまり何もかももう知っている前提で、その中で何が良いのかと考える段階に進んでしまうのだ。「本当は」世界や自分や他の全てのものがどういう風ににあるのかをまだ全然知らないのに、もうその自覚を実感として持つことができない。「本当は」なんて形容詞をつけないとその事を言い表せない。それだけ私の精神は歳をとってしまったということだ。

 

 

唯一ある道

まぁでも実際問題知ってしまったことはもう元には戻せない。精神を若返らせるたって、そんなのは実年齢と同じで土台無理な話である。今の自分が頑張ってできることはせいぜい「どういう風に知らないか」を知ることくらいである。何かの言葉を言われて、それがただの意味の無い音の羅列に聞こえるのはもう無理であるが、それについてはあれもこれも知らないのだと理解することはできる。目の前にあるものを順次そのように思考し、少しずつ氷山を溶かしていく。悪あがきかもしれないが、それしか方法がないのだろうな。

 

 

願わくば

もし老人まで生きられたなら、否応なしに人は物忘れが激しくなり、知っていることはどんどん少なくなっていく。それは大変に素晴らしいことだと私は思う。できれば最期には何もかも忘れて綺麗さっぱりであの世に逝きたいものだ。自分が何者かとか、今生きてるのか死んでいるのかさえも分からなくなるくらいに。生き物とは本来そういうものだろう。

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