底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

そもそも形はないのではないか

そもそも形はないのではないか

幸せの形は人それぞれ。努力の形は人それぞれ。何とかの形は人それぞれ。このブログでも散々多用してきたフレーズだが、本当にそうなのだろうかと疑い始めている。いや何も「人それぞれではない!皆同じ形だ!」などと言いたいわけではない。そもそもそれらは「形」があるものなのか?と疑問に感じたのである。だって私二十五年生きてきたけれど自分の幸せの形も努力の形も、それがどんなものであるのか未だに全然分からない。いつもあるのは、これがそうなのかなぁ?という酷く確信を欠いた憶測だけなのだ。これが私の形か!などと実感したことは二十五年の人生の中でただの一度もないのである。

 

 

思いが形をつくる

形があるとは即ちそれにハマってしまえば、他の何かが決まることを意味している。この形になれたら自分は幸せであることができるとか、この形である限り自分は努力しているとか、とにかく形にさえハマればもうそのことについて考えなくて済むので、後はただ形に縋って残りの人生を同じように過ごせばいいだけになる。つまりは思考したくない、さっさと楽になりたいという人の思いが形を欲しているのだ。現実の方にも形が存在するのかどうかはかなり怪しいものである。

 

 

形の弊害

今自分が感じている幸せや、今自分がしている努力。それらは間違いなく幸せで、間違いなく努力であるはずなのに、どこかそれだけではだめな気がする。もう少し何か足りないような、これは幸せや努力とは呼べないのではないかと、そう思ってしまう。偏に形があるとしていることの弊害であろう。思い描いていた形とのズレが気になって、それを素直に幸せや努力とは認められなくなる。逆に今確かに不幸を感じたのに、今確かにサボっているのに、形通りであるから、不幸であるはずがない、努力しているはずだなどと思い込むことも往々にして起こってしまう。

 

 

今が全て

人それぞれで形が違うというよりは、形などそもそもない、と言ってしまった方がいいのではないかと思う。大事なのは今自分がどう感じているかだけであり、そしてそれが全てである。幸せも努力も今自分がそうである、そうしていると思えるならそうなのだし、そうと思えないのならどんな形をしていようがだめなのである。自分の感覚も外側の物事も常に移りゆくのが当たり前なのだから、決まった形に押し込めようとするのはどうしたって無理が生じる。人生が決まらないことが苦痛であるのは理解できるが、だからって一つに決め込んでも、決まらない現実の方は少しも変わらないのである。

 

 

形があるかどうかには「ない」という決まった形があるということですか?

ないのでないです。

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