底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

やりたいこととは何かと思いの不自由さについて

心の声を信用できない

自分の心の声はどれほど信用に値するだろうか?少なくとも私はあまり信じられない。なぜなら人生で幾度となく死にたいと思ったことはあれど、今もこうして普通に生きているし、幾度となくスカイダイビングしてみたいと思ったことはあれど、未だにしたことがないし、幾度となく真っ当に生きていきたいと思ったことはあれど、依然底辺のままだからである。

 

 

本当はどっちなんだろうね

この場合二つの捉え方ができる。一つは「そうしたいのにそうする能力や時間がないからできていない」で、もう一つは「本当はあまりそうしたいと思っていないからしていない」である。私はいつも後者の考え方をしている。なぜなら「思い」はあまり自由が効かないからである。はっきり意志を持って「思って」いることはそうそうない気がするのだ。

 

 

心の中なら何を言ってもバレない

思いというのは口に出さなければ、他人には伝わらない。自分にしかわからないという意味においては思いの右にでる行為はない。身体的行為が他人にわかるのは言わずもがな、考えや精神状態もよく見ている他人にならバレてしまう。しかし思いだけは別である。仕事中に心の中で「うんこ!」と叫んでみても、うっかり口に出したりしてない限りはバレることなどありえない。

 

 

なんでも思える

更に思いというのは自分の思いたいものならなんでも思える(!)のである。右手を伸ばしても届かないものはあるけど、思いたいものを思えないということは無い。思えないものを思いたいと思うことはそもそもできないからである。「なんでも」の基準がそもそも思いに支えられている。

 

 

思いの決定的に不自由なところ

プライバシーとその広汎性においては確かに思いの自由度はとても高い。だが思いには決定的に不自由な側面がある。それは「何かをずっと思っていなければならない」ということである。右手には伸ばさない自由が与えられているのに、思いには「何も思わない」自由は与えられていない。どんなに頑張っても「何も思わないと思う」が限度である。

 

 

テキトーに思ってるだけやろ

その不自由さを考慮に入れると、私はどうしても自分の心の声を信じる気になれない。終始何かを思っていなければならないということは、つまりテキトーに思っているだけの事も多々あるということであろう。

 

 

やらないではいられないことだけがやりたいことである

私は常に「今していることだけが、自分の本当にしたいことである」と考えている。思いの側から自分のしたいことしたくないことを考えることは全然していない。もちろんこれは一種の現実逃避なのだろうと思う。能力がないから叶えられていない思いもきっと私には数えきれないほどたくさんある。でも「能力や時間がないからできていない」と言って「やらずに済んでいる」のなら、結局それは別にたいしてやりたいことではないのだろうと思うのである。

 

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