底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人間を二分することの意味

1

人は人間を二分するのが大好きだ。やれ勝ち組負け組だの、根明根暗だの、幸不幸だの、頭の良し悪しだの、才能があるかどうか、美貌があるかどうか、お金があるかどうか…。挙げればキリがない。きっと二分すると、「価値」の有る無しを簡単に決められるからだろう。こんなに分かりやすい構図はない。片方に価値があるとすれば、当然、相対するもう片方には価値がない、そうして人を容易く区別できる。もちろん、自分自身も。しかしその区別にどんな意味があるのかと問うと実はよく分からない。だってそれは所詮、価値がある(ない)「とされていること」であって、価値が「実際に」あるかどうかとは全く関係がないのだから。

 

 

2

価値があるとされている方になれば、人から価値がある人間と思われる。その一点においては確かに良いのかもしれない。でも当たり前だが、どれだけたくさんの人から価値がある人間だと評されても、自分自身がそこに価値を認めているのでなければ、まるで意味はない。どれだけ他人から素晴らしい人生だと思われても、自分自身がそう思えないのなら、自分にとってその人生が素晴らしいものになることはないのだ。逆にどれだけたくさんの人から価値がない人間だと評されても、自分自身がそこに価値を認めているのなら、依然価値はある。どれだけ他人から惨めな人生だと思われても、自分自身がそう思わないなら、自分にとってその人生が惨めなものになることは、やはりないのである。

 

 

3

例えば、あるゲームをすごく楽しんでいる人、或いはあるものをすごく気に入っている人がいたとして、その人達はそのゲームやものの価値を気にするだろうか。きっとしないはずである。価値があろうがなかろうが、楽しい事実、気に入っている事実が揺らぐことはないからだ。全くどうでもいいのである。つまり価値という概念は、人生においてその事実を持っていない人のところに出現するのである。人を二分するのならまず、ここで分けられるべきだ。

 

 

4

人を二分して得られるものは、価値がある方なら幻の優越感である。自分に価値があると思いたいが為に自分に有利な物差しのみを持ってきて、それで人生の全てが決まるかのように振る舞っているだけである。価値がない方が得られるのは、諦める理由だ。自分に価値がないと思いたいがために、自分に不利な物差しのみを持ってきて、それでだから人生の全てを諦めるしかないんだということにしておきたいだけである。要するにどちらも現実逃避でしかない。

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