底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

肉体だけが人間を人間たらしめる

いつの間に…

最近は天気を書くことを忘れていた。窓から見える入道雲とつき抜ける青い空の組み合わせが夏本番が来たことを知らせてくれた。外を出たら案の定死ぬほど暑かった。アイスを5個ほど食べてしまった…(猛省)

 

 

思考の存在意義

思考する能力をなぜ人間は持ち合わせているのだろう。たぶんそれは日常生活に必要だからである。考えることは生活に必要で、生活もまた考えることに必要なのである。

 

 

存在意義がない思考

しかしこの世には確実にそのルートから外れてしまった、生活にはひとつの役にも立たない思考が存在する。今日の晩御飯の献立や明日の予定や家族の心情やお金のやりくりではなく、人生の意味を・私が存在する構造を・存在と無の関係を・過去と未来の不思議を考えている精神がある。では生活に無益なこれらの思考は一体どこが終わりなのだろうか。謎は謎として存在し続けるのなら、生活に活かすという絶対的ゴールテープをくぐれない思考たちは、いつまでも永遠に彷徨うしかないのだろうか。

 

 

思考にとって人間であることは絶望

そんなことにはきっとならない。どんな膨大で深い思考をしていようが、お腹のすかない人間はいない、眠くならない人間はいない。その瞬間に必ず現実へと立ち返る。完結しないままの思考を抱えて、自分が一人の人間であることを改めて知る。思考で掴んだ確実性と必然性からはるか自分は遠い場所にいるのだと自覚する。偶然で不確かな現実からどれだけそれらを渇望しても手は届きはしない、思考の側からみればこれは紛れもなく絶望であろう。

 

 

人間にとって人間であることは救い

しかし一人の人間としてこれは間違いなく救いである。肉体を持っていると知ることは自分がいると知ることと等しい。精神だけで、思考だけで、自分が存在することなどありえない。それらは自分を認識するものであって自分を作りあげるものでは決してない。肉体は確かに「私の(所有)肉体」であるが、同時にやっぱりそれは「私」の意味に既に含まれているのである。 

 

 

生活から逃れるすべは無い

肉体だけが思考や精神を正気に戻す作用を持っている。正常な人間の営みを思い出させてくれる。永遠を彷徨う危機に瀕していた思考たちは、肉体のいずれ必ず来たる「死」の存在によって、言語化を促される。言語化されたとてゴールにたどり着く訳ではない。しかしゴールへの道を確実に歩み始めることになる。皮肉なことに、生活に無益な思考を深めるためにさえ生活が必要なのである。どんなに賢くなろうが・真理に迫ろうが、人間は根本的に肉体「である」動物なのだ。生活に無益なものだからといって生活する(生きる)ことからは逃れられないのである。

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