底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の中にあるもの外にあるものと悪あがき

自分の中にあるもの外にあるもの

他人は私のお金を盗むことはできるが、私の思考を盗むことはできない。私の家には侵入できるが、私の心には侵入できない。私の肉体は傷つけられるが、私の精神は傷つけられない。自分の外にあるもの、中にあるもの、その区別は計り知れないほどに大きい。もちろんだからって、中にあるものだけが大切というのではない。ただやはり中にあるものの方がより自分の中心を担っているのは事実である。これは自分が死ぬときにこの世に残してしまうものか、あの世に一緒に持っていけるものかという区別でもある。いや、この世に残していけるものか、あの世に一緒に持っていくしかないものかといった方がいいのかもしれない。




死による変化を少なくするため

自分の中にあるものは、死ぬ直前までできるだけ自分の外に出して、この世に残していきたい。それは死に伴う変化を小さくするためである。残せるものは全て残して、もはや死によっては何も変わらないのだと言えるレベルにまで自分の存在を空っぽにしておきたいのだ。逆に元から自分の外にあるものは、同様の理由により、自分が死ぬ直前にはその全てを消し去りたい。あの世には持っていけないものなのだから、それが少なければ少ないほど死による変化も小さくなるのは自明であろう。




だがそんなことはできない

だが定義により、自分の中にあるものは自分の外には出すことができない。自分の中のものを言葉など何かしらの形にして外に置くという作業は結局(粗い)コピーなのであって、そのもの自体の移動ではない。いくら外に「出した」とは言っても、自分の中にあるものが減っているわけではないのである。だからこそ、それは他人には決して奪えないものなのだ。「出す」作業は所詮ただの悪あがきに過ぎない。もちろん自分の外にあるものを消し去る作業も同じ。どれだけ消したところで生きている限り肉体だけは絶対に残るのだし、自分が死んだ後にそこに何も残らなければいいという思いも、結局は自分と共に死んでいくのだから。




素晴らしい一生

それでもこうしてブログを書いて何かを残そうとしているのは、きっと自分はそうだとは知っていても悪あがきせずにはいられないタチの人間だからである。思うに悪あがきとは人に残された最後の反抗手段であろう。それは「意味がない」と知っていても尚行えるのだ!いやむしろ意味がないと知っているからこそできることなのだ。「クッソ、意味のないものをあれこれやるだけの人生だったな」と言って死ねるのなら、そんなにいい人生はないと思う。どうせ死んでしまう人生において、生きることのその全ては最初からただの悪あがきであるのだから、それをはっきりと自覚して死んでいける人生ほど素晴らしい一生はないのである。