底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

アラサーなのに未だに自分の人生を決められない

アラサー間近

もうすぐ二十五歳。もう人によってはアラサーと呼ぶ年である。しかし「将来」という二文字は私にとって未だ十代のころと変わらない輝きを持っている。よく言えば輝き、悪くいえばそれだけまだ己の人生に見通しがたっていない。

 

 

大人になるってなんだろな

十代の頃は最強であった。何も恐れを知らなかった。自分を中心に世界を回すのなんて当たり前だった。世界と私はその頃同義であったのだから。二十代になると、徐々にわかってくる。世界という存在は自分とは違うのだと、むしろ自分は世界の中の取るに足らない微小な存在なのだと思い知る。そうしてだんだんと人生の終わりを意識するようになる。自分はこの何百億年と続く宇宙のほんの数十年しか存在しないのだと知り、人生の短さとその一回性を理由に価値ある人生を送りたいと願うようになる。「何をしたいか?」からおりて「何ができるか」に人生の方向をシフトチェンジしていく。それが大人になるということなのだろうか。

 

 

死ぬって何が?

私は未だにその「何ができるか」に向き合う気がない。むしろもっと前の、自分を世界の中の取るに足らない微小な存在と認める段階で躓いている。私にとって私は他にないほど大事だからだ。それを世界にとって大事でないというそれだけの理由で切り捨てることは私的に困難である。私は未だに世界と私の区別がはっきりついていない。だから「将来」という二文字は、今もなお私に無限の未来を連想させる。たかだか数十年しかないとはどうしても考えられない。年齢を重ねるにつれてこれは改善されていくのだろうか?経験がないので全然わからない。自分の終わりとは考えれば考えるほどに奇怪である。私が死ぬってそれは一体何が死ぬことなんだ?

 

 

ライフプランとか無理ゲー

本来ならライフプランを私もそろそろきちんと考えなければいけない歳なのだろう。いや、既にライフプランがもうできあがっていて、それを着実に歩み始めている歳なのかもしれない。だが私は未だに十代の頃の最強感を捨てられないでいる。世界にとって私が取るに足らない微小な存在であることが一面の真実であるのは疑う余地がない。しかしそれは結局最も大事な事実の上に成り立っている気がしてならない。「私」が今ここに存在しているという事実の上にである。「私」が存在しなければ、世界は存在していないのと同じであるという点において、「私」は世界さえ飲み込むことができる。

 

 

私の死は誰にも知られることはない

私は世界の中の一人の登場人物であるのと同時に、世界そのものをフィルムに納めるカメラマンでもあるのだ。カメラマンの死が物語の登場人物に知られることは決してない。自分という登場人物にさえ、である。そんなカメラマンのライフプランを考えたところで物語にどんな意味があるというのだろう。

 

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