底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の中にだけ吹く向かい風

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人間には向かい風が必要である。向かい風がなければ、追い風がどんなにありがたいものなのかを実感できない。風がない状況の平穏さも忘れてしまう。向かい風が一切ない人生に、もはや自分はいない。向かい風に強く吹かれるからこそ、自分という存在がそこにはっきり現れるのである。地面を踏みしめながら一歩ずつ立ち向かうその足が自分の生きる意味なのだ。

 

 

2

けれども、この時代にもうそんな強い向かい風は滅多に吹かない。時々局所的に突風が発生することもあるけれど、多くの人にとっては、そよ風くらいのものだ。大変困った事態である。もはや追い風のありがたみは完全に忘れられて当たり前と化し、風がない状況であるだけで不憫と数えられるようになってしまった。そして、何より生きることの意味を、自分という存在を見いだせなくなっている。そこで、元々そよ風くらいだった向かい風にうちわで煽り威力をあげようとする人々が現れた。生きていてもはや何の大きな問題もないので、人工的に本来は微小である問題を増幅させ、そこに立ち向かうことで、自身の生きる意味を見出したいのだろう。

 

 

3

人生とはその全てがとてもとても虚しいものだ。自分はやがて必ず死ぬということを抜きにして考えても、人類はそのうちら絶滅するであろうし、地球もやがては消えゆく存在である。全てものには終わりがあり、私たちは常にその終わりへと、ゆっくり近づいているのである。どんなに人生の中で有意味なイベントが起ころうとも、人生そのものはやはりとてもとても虚しい。有意味なイベントは結局その虚しい人生の外枠から目を背けさせてくれるというだけである。

 

 

4

何かをすれば、その虚しさから逃れられる。そういう思考をもう捨てるべきなのだと思う。虚しさをずっと直視する必要はないけれど、せめて虚しさを自覚し、その虚しさからの目の背け方を個々人が各々で考えるべきなのではないか。外からただ与えられるような向かい風はもう消滅寸前だ。自分の中にだけ吹く特別な向かい風をつくらなくてはいけない。自分一人だけでそれに立ち向かうのである。

 

 

5

外的な向かい風に頼らず、追い風のありがたみを常日頃心に留め、風のない状況の平穏さを享受し、その上で虚しい人生をどう生きていきたいか、きちんと考える。限りなく選択肢がある現代において、外的な向かい風はもう概してそよ風であり、気にしないでその横を通り抜けることはいとも容易い。そうしないでいるのは、向かい風がそうさせないからではなく、自分がそう選択しているからだ。

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