底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分にとっての自分の価値と世界にとっての自分の価値のギャップについて

ギャップ

自分にとって自分はそれ以上ないくらいに大切。でも世界にとって自分はとるに足らない存在。このギャップを一体どう埋めていけばいいのか、私の人生における永久的なテーマの一つである。方法は今のところ二つだ。世界など知らん、自分が自分のことを大切にすればそれでいいとするか、実際に功績などを残し世界にとって貴重で大切な存在になるか。とは言っても後者は普通には到底無理であるから、実質前者しか選択肢が残っていないのだけど、前者は前者で本当に「それでいい」と強がりでなく言えるのか、結構怪しいところではある。




なぜか自分にとって自分は価値であった

shikouzakki.hatenablog.com
価値は人それぞれで違ってはいけない。誰にとっても千円札は千円の価値でなければならない。それがそのものに価値があるというそのことである。個人的に何かの紙切れに千円の価値を込めるのはもちろん構わないが、いくら込めたところでそれは千円札として使えるようにはならない。自分に置き換えて言えば、自分自身でいくら自分に価値を置こうとも、実際に自分に価値が生まれることはあり得ない。どう足掻いてもそれは単なる個人の願望で幻想である。だから、自分に価値を置きたくば、やはり世界にそれを認めてもらう他ない。いやしかしここで重要なのは、私は自分に価値を置きたいのではなく、「そもそも」「最初から」「どうしようもなく」自分が価値に見えてしまうことである。つまり、私は何かの紙切れを千円としたいのではなく、端的にそれは千円札なのだと言いたいのである。




自分も世界もどちらも間違ってないから困る

問題は私にはどう見ても千円札にしか思えないそれが、世界にとってはどうやら何かの紙切でしかないらしいことにある。なぜギャップが生まれるのか、それはそもそもの認識に齟齬が起きているからなのだ。この齟齬を無くすことは原理的に無理である。そう見えるものはそう見える。そう見えないものはそう見えない。自分か世界のどちらかが認識を誤っているという話ではないからだ。




だからせめて少しでも価値になればとこのブログを書いているのかもしれない

自分が自分を大切にしていればそれでいい。そう思えるようになるのはかなり難しい。だって自分からすれば、それは千円札を紙切れとして扱われている理不尽に耐え続けることであるから、どうしたって千円札だから!というような気持ちが生まれてしまう。世界にとってはただの紙切れであることを理解していても、自分自身それを紙切れとして見ることは絶対に不可能なので心からの納得はできず、状況を飲み込むのは結局我慢にしかなり得ない。やはり一番いいのは実際に世界にとっても千円の価値になることなのだけど、それができるなら苦労しないんですよね。