底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

知りたい

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一度染み込んでしまった悪癖はそう簡単に治るものではない。気を抜くとすぐにブログの日付が飛んでしまう。ちゃんと戻していきたいけれど、無理をすると本末転倒になるので、徐々にでいこう。さて、今日はなんの話をしようか。この頃思うのは、私はやはりもっと世界とか私とかについて純粋に知っていきたい。以前は八割がた「知っている私ってすごい」というくだらない自尊心のために色々知っていこうとしていたが、最近はそれを抜きにしてもやっぱり知りたいなと考えるようになった。たかだか数十年しかない人生で知れることはただですら、とても限られている。その上、別に個として優れている頭脳を持っているわけでもないから、更に更に知れることは少ない。その中のごくわずかの範囲のことは、せめて知っていけるだけ知っていきたいと思うのだ。

 

 

2

知れることを知っても、結局は死んで全ては無に帰るという観点から言えば、知ることには意味がないと言える。知っていても知らなくても、死なないことができるようになるわけじゃない。でもそうは言っても、意味の有無以前にやっぱり知りたいなと思うのだ。だって、なぜだか分からずに存在したこの世界で、自分なんていう変テコな存在が数十年だけ生きている。そんな不思議な状況を見つめると、「なんだこれ!」と思わずにはいられないのである。世界は存在する!なぜ!?自分が存在する!どのようにして!?やはり端的にそんな思いが込み上げてくる。

 

 

3

しかし、どれだけ知ってもきっと「なぜ」は分からない。なぜは永遠に遡行できるからだ。神様が作ったのだろうとなんだろうと、またそれについてなぜと問うことが可能になってしまう。だから人が知っていけるのはせいぜいそれが現に「どのようにして」存在しているかだ。私はまだまだこれを知らなさすぎる。自分がどのようにして存在しているのか、よく分からない。分かるのはとにかく存在しているということだけ。

 

 

4

最近はますます自分という人間には興味が無くなった。どんな人間であるかなどは、つまるところ生きやすさに関わるだけの些細な話だ。私が人間の一人であることはただの偶然に過ぎない。見つめたいのはやはり自分という存在そのものだ。自分の本質はどこにあるのか、記憶か、感覚か、はたまたそんな本質めいたものなどはないのか。何があれば私が存在し、何がなくなれば私は存在しなくなるのか。それこそが身体とは別の真に私の生死に関わる大事な話だ。私はその答えが知りたいのである。

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