底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

助けは必然的にお節介になる

助けは必然的にお節介になる

人が「助けて」と口にしない状況は二つある。そもそも助けを必要としていない時と、声をあげることさえできないくらいピンチな時だ。この二つ見分けるのは案外難しい。肉体的なものや外的要因によるものならまだしも、精神的なものや内発的なものならおよそ本人にしか分らない。どんなサインがあったら憔悴していることになるのか、どんな状態が危ない時なのか、人によって千差万別である。だから、本当に人を助けようと思ったら、必然的にある程度はお節介にならざるを得ない。お節介を覚悟の上で助けるということが必要になってくる。




お節介にも種類がある

お節介はお節介であるが故にお節介と言われる。普段こんなにいらないものは他にないくらいである。それは価値観の押し付けであり、無用な心配であり、余計なお世話である。「頼んでない」そう言われるばかりで日常において何一ついいことはない。しかしそれでも、お節介は基本的に良かれと思って為されるということには留意したい。少なくともそれは悪意でなく、ただ結果的に自分にはその好意が必要ないというだけのことである。もちろん例外もある。自身の何かしらの不満足を相手にお節介(ほぼ強要)という形でぶつける人もいるので、それらの人の心境にまで思いやる必要はないが、お節介にも種類があるのだということくらいは心に留めておきたい。




お節介はピンチの時に重宝される

普段限りなくいらないお節介であるが、ピンチの時には逆にこれほど必要なものはない。声も上げられないくらい憔悴しきっている時、そのどん底から救ってくれるのは得てして「元気になった方がよい」という他人のお節介である。人は自己管理だけでは全てを賄えない。自分をきちんと管理できるのは、自分が元気な時だけである。元気がなくなる兆候を全部漏れなく察知して、最底辺に落ちる前に他人に助けを求めるというのが理想だが、現実はそううまくはいかない。




できることを精一杯

何もない時には無用の長物であり、ピンチの時には手のひら返しで必須アイテムになる。だとしたら、結局それはいるのだろうか、いらないのだろうか。普段の快適の為にピンチな時の自分を切り捨て、いらないと言うべきか、ピンチな時の自分のために普段の快適を切り捨て、いると言うべきか。いずれにしても、いる時にはいる、いらない時にはいらないというのでは虫がよすぎるであろう。だがもちろん、だからといって必ずどちらかを捨てろというような話でもない。どんな事柄においても大切なのはその仕組みをよく知り、やるべきことを判断し、できることできないことを見極め、できないことは腹を括りできることを精一杯行うことである。