底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

因果応報を信じるのは人間の性かもしれない

1%と99%の違いは?

1と99%の違いとはなんだろうか。これは至極真面目な問である。例えば「あなたが今日中に犬のうんこを踏む確率は1%です」と言われたら、私は結局踏むのだろうか?踏まないのだろうか?たぶんほとんどの人は「踏まない」と感じるだろう。でもなんで?それが1%だからってどうして起こらないと思うのだろうか?

 

「それが確率というものだ」完。

 

というのでは後味が悪いので、もう少し詳しく考えてみたい。そもそも1%というのは何に対しての1%なのであろうか?つまり他の99%の正体とはなんだろう?この場合はおそらく、私が100回今日という日を送るとその内の1日で犬のうんこを踏むことがあるということなのだろう。え?100回今日をという日を送る?どうやって?

 

 

全ての可能性は2分の1

確率の比較対象は常に「可能性」なのであって、現実ではない。こんなのは当たり前の事なのに、時々本気で忘れていることがある。現実においての可能性は常に「起こるor起こらない」の2分の1であって、それ以外ではありえない。私に与えられている分岐は踏むか踏まないかの二つしかない。これはどんな事象でも必ずそうである。論理学ではこれを排中律というそうだ。よく知らんけど。何かが起こる確率が99%と聞くと自分に起こるだろうと思い、逆に1%と聞くと自分には起こらないだろうと思うのはどうしてだろうか。一見それが当たり前のように思えるが、しかしよく考えてみると根拠がどこにあるのか皆目検討がつかない。どうやら反射のように無根拠で確率が51%以上なら基本的には起こり、確率が49%以下なら起こらないと思っているらしい。

 

 

因果応報を信じるのは人間の性なのかもしれない

因果応報とやらを信じているからなのかもしれない。とてもじゃないけどいい人間ではないからそんなに運がいいわけないなとか、でも悪い行いはしていないのだからそんなに運が悪いこともないだろうとか、そんな思いが頭の片隅にある気がする。運とはまさに運であるが故に、例えそれが0.000001%であろうが起こる可能性があるということを人はしばしば忘れることがある。だからその0.000001%が自分の身に起きると「どうして私が?」なんて問を立ててしまう。そんなものに理由はないと知りながら、それでも納得がいかないといった様子で、時にそれを自分の行いのせいにしたり、他人の仕業だと勘ぐってみたりするのである。

 

 

1%だからって油断した自分が悪い

確かにこの世には因果が確実にある出来事もあるだろう。しかし理不尽で不平等でどうしようもない「ただある」ことの方が圧倒的に多いのではないだろうか。それらが自分に降りかかる確率は常に2分の1なのである。1%だからって油断や安心をする理由には全然ならない。いや、油断や安心をしてもいいけど、いざ自分の身に起きてもそれは誰のせいでもないという覚悟はしておきたい。

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