底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

個と種の非対称性

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種にとって個は種を存続させていくための道具だ。反対に、個にとっての種も同様である。お互いがお互いを生かし、お互いがお互いを利用し合っている。種は個の経験の数だけ学習し、より生存の確率を上げる。そして、次なる個はその環境の中へと生まれてくる。種にとっての個も、個にとっての種も、どちらの方から見ても、両者は定義や本質から言って離れることのできない関係である。しかし、そこには一つだけ非対称なことがある。それは種にとって個はいくらでも替えが効くが、個にとっての個も種もただそれ一つしかないということだ。

 

 

2

個にとって不幸のダメージはとても大きい。時には人生そのものがその一件を経ることによって、まるきり変質してしまうこともある。それに死んだら文字通り全てが終わりだ。けれども、種はその不幸や死さえも学習の一環として取り込める。その非対称性による個の犠牲はいつの時代にもつきもので、種は常に、それを糧にする形で進歩をとげてきた。そして、これからも種が存続をしていく限り、ずっとそれは変わらないであろう。永遠によりよい生活を送っていけるのは最大多数だけであり、存在する全ての人がそうなれる日は決して訪れない。

 

 

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では、そういう最大多数からあぶれる人々を生み出さないためにはどうすればいいかと言えば、二つだけ方法がある。種が存続をやめるか、どんな不幸や死が自分の身に降りかかっても素晴らしい人生であったと全ての人が思えるようになるか、である。ここからはもう好みや個人の価値観の話だ。そこに絶対的な正しさはない。結局は何を基準にするかでしかないから。私の場合で言えば、私は他人には後者になって欲しいが、自分自身では前者も後者も目指している。今まで書いてきた記事の多くは、他人にとってのその手助けになればとの思いが溢れ出した結果なのだと思う。

 

 

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犠牲の上に成り立っている今のこの環境に一方的に感謝し、今現に不幸である人々を見て見ぬふりせず、あすは我が身と強く覚悟して生きる。自分にできることは結局それくらいしかない。とにかくただ、この非対称性による強烈な暴力を無視してはいけないと個人的には感じる。一撃で個の全てを破壊しかねないそれを「生きるとはそういうことだ、仕方ない、運が悪かったのだ」などと開き直らない。運が悪かったのではない。それはあくまで多くの個が存続を望んできた結果なのだ。望んだのだから、その結果を引き受けなければならない責務があるはずだろう。

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