底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人の数だけ人生があるのだ!!

命は同じでない

命と一口に言っても、それが「誰の」命であるのかはとても重要な観点である。知らない人なのか、親しい人なのか、自分のなのか。全てを同じに扱っているという人はいない。そこには必ず区別が存在している。ところが例えばまだまだ世の中に蔓延っているコロナウイルスに関する報道などはいつも人数だけである。もちろん報道としてこれは当たり前の事だ。報道の形式に文句があるのではなく、そもそもそのように報じるしかないということをまさに言いたいのである。つまりは、我々は二つの世界観を同時に生きている。自分を含めた全ての人を数の「一人」として見る世界と、自分を中心に世界が開け意味を帯びていく世界の二つである。

 

 

知りたいのは確率ではない

自分は世界の中に登場する一人で、それ以上でもそれ以下の存在でもない。これは一面の真実である。統計としては自分はただ一人という数字だけで存在しており、所詮は何かのパーセンテージを出すための微々たるデータのはしくれである。だがやはりそれだけではない。自分が一世一代の大手術を受ける時、私達が知りたいのは決してその手術の生存確率などではなく、他の誰でもない自分はまさに助かるか否かということであろう。確率を知ろうとするのはあくまでその参考のためだ。たとえ生存の確率が99%であったとしても、自分が1%の方に含まれてしまったら何の意味もないことを私達はよく知っているのだから。

 

 

人の数だけ人生があるの冷静に考えると本当に怖い

世界に生きている誰にとってもそうなのだと考えると酷く恐ろしい。毎日見るあの死者数はただの数ではない。それは一人一人の人生である。愛する人もいただろう。無念もたくさん残したのかもしれない。数字としてはただ「1」と表示されているその裏に様々な悲痛の思いがあったに違いない。

 

 

それが世界の構造

自分や自分の親しい人は確率の世界にはいない。確率がどうであろうと、他の誰でもない自分やその人が助かるか助からないか、幸せになれるかなれないか、それだけが大事なことなのである。一人という数字には決して現れない意味と重みがそこにはある。死者がたった一人でも、その一人が自分にとってかけがえのない人であったのなら、たった一人なんて言い方にもはや何の意味があろうか。だがしかし、それが知らない人になった途端、人は胸を撫で下ろすのではないか。なんだ一人だけなら少ないねと言って、いつも通りの暮らしをしていくのではないか。それが悪いと言いたいのではない。そもそも世界がそういう構造をしているということだ。誰にとってもそうなのだ。一人ひとりがその中を生きていて、生きているのは皆人間なのである。

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