底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人の言葉の真意を考えてみる

主語と述語の省略がもたらすもの

「そんなことは無意味だからやめてしまえ」と誰かに言われても、そのものが私にとって意味があるかどうかは私が実際に感じているところによるのだから、私が意味を感じている場合には「あなたは無意味に思うのですね」としか返す言葉はない。日常的な言葉は往々にして主語と述語が略されてしまうからややこしい。上の言葉をきちん直して言うなら「私にはそんなことは無意味にしか思えないからあなたはそれをやめた方がいい」となるが、その人が無意味に思うかどうかと、私がそれをやめるべきかどうかは端的に関係ないので、それは単に荒唐無稽な主張なのだ。しかし主語と述語が略されるとまるで関係があるかのように聞こえてしまう。「私」と「思う」がないと、どうしても「絶対的に無意味だ」と言われているような気がしてしまうのである。

 

 

気のせい

だから意識的に他人の言葉の真意を考えてみる必要があると私的には思う。特に強い口調や攻撃的な言葉で接してくる相手の場合にきちんと留意した方がいい。「お前なんか〇〇」と言われたところで、それは単に「私はお前なんか〇〇だと思う」の意味しか持っておらず、どんな言葉を投げかけられたところで、自分が「実際に」どうであるかとは直接的には関係ないのである。そう言われるとそんな気がしてしまうのは、端的に気のせいであり、ひいては相手が言葉を正確に喋っていないせいである。

 

 

自分で決められる

他人の言葉が自分に影響する範囲は偏に自分自身で決めていけるのだ。もちろん受動的なところは前提にある。それ故に暴言などは絶対に許されるべきではない。これは単に心理的なストレスを自分で軽減できるというだけの話である。言葉に対する価値判断の自由は常に自分に残されている。聞くに値しないただの戯言であるのか、きちっと肝に命じるべき格言であるのか、その判断は自分の理性に任さているのである。

 

 

他人の言葉をそのままに信じすぎない

他人がなぜそんな言葉を投げかけてきたのか、他人のその言葉は本当に自分と関係があるのか。それらを考えることに損はないが、そのまま受け取るのは得てして自分が疲れる。そう言われると端的に自分がそうであると思い、そう言われると端的にそうした方がいいと思えてしまうのは、人の言葉を疑っていないからだ。それはそれでとても純粋で素敵なことである。一度疑う方に足を突っ込んだのなら、多分もうそちらには戻ることができない。しかし現実問題やはりそうしてばかりではいられない。他人は決して自分の人生には責任を持ってはくれないのであり、またそうする義務もないのであり、それ故に多くの場合で、その言葉には自分や自分の人生の真実などは微塵も語られていないのである。

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