底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

中の関係と外の関係の人を区別をする

許せたり許せなかったり

同じ言葉なのに、それを許せたり許せなかったりすることがある。同じ「馬鹿だな」でも、時に傷ついたり、時になんとも思わなかったりする。その違いはたぶんそこに愛を感じられるかどうかだ。愛があれば多少の暴言は受け流せるし、むしろ愛情の裏返しと捉えることさえ可能である。言葉に愛があるかどうか、その判断は大抵「言っているのは誰なのか」というところで為されているのだと思う。親密にしている人からの暴言は多くの場合に自分と親しいからこそ発せられているのだと人はよく知っている。だからそれを許せる。知らない人からいきなり同じ言葉を言われても絶対にいい気はしないだろう。人は親密にしている人はその多くを許せるが、知らない人に対してはたいそう厳しいのである。




中と外

なぜ、そうであるのか。それは前者が「中の関係」であるのに対して、後者が「外の関係」だからである。人は誰しも「人間は~であるべき」といった行動規範を少なからず自分の内に抱えているが、身内や親しい人に対してもそれを厳しく適用させるといったようなことは普通しない。なぜなら、そこには情があるからだ。相手がある程度その規範を破っていても、大概情がそれを上回るので、全く許せてしまうのである。むしろ自分の持っているその規範を適用させない・適用しようと思うわない人こそが親密な間柄であることの証拠であったりさえするのだ。私はこれを「中の関係」と呼んでいる。その反対に「外の関係」とはつまり、自分にとっては無関係でその規範の中に押し込めたくなるような人々のことである。
shikouzakki.hatenablog.com




正しいことは誰にとっても正しいのでないとダメだからね

外の関係になると、人は一気に想像力が乏しくなる。原因は想像する動機を持ち合わせていないためだ。だってそれは端的に自分には関係のない人であり、別にどうなろうとも自分は痛くも痒くもない。だから「規範を押し付けたい欲」をわざわざ我慢したりしないで、普段燻っている自分の正義を無遠慮に振りかざすのである。
shikouzakki.hatenablog.com




中と外がごっちゃ混ぜの今、私たちにできることとは

憶測だが、昔は中と外は綺麗に分かれていたのではないだろうか。「特定の」顔も何もかも知らない人とその場限りの関わりを持つなんて機会はきっとなかったのだから、当時の外の関係とはそのまま「自分ー世界」であり、つまり一周回って誰しも自分一人だけがその規範に従って生きていたのではないかと思うのだ。ところがインターネットが登場してから、中と外はすっかりごっちゃになってしまった。本来は自分にとって外の関係であるはずの人と関わることができ、あまつさえその中を覗けてしまったり、情がある中の関係だからこそ許されていた話を外の関係の人に向けて発信できたり、そういうことが日常茶飯事的に起きている。観察してみると、ネットの争いは大概この中と外の区別がされていないことにあるのがよく分かる。しかしこの期に及んでは、もはや中と外の組み分けも無理なのだろう。だから、争いを避けるために今私たちに必要なのは、その人は本来は自分と個別に関係するなど有り得なかった外の関係の人であると知ること、或いはその人は今親しい中の関係の人との話をしているのかもしれないと想像してみることだと思う。