底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

無意味という意味を持つ行為

無意味な行為

山手線を一周する、自分の住所に手紙を出す、予定もないのにホテルで一泊する。私はそういった無意味な行為を時々やっている。有意味の波に溺れそうな時、人生の虚無を思い出したいという気持ちで無意味な行為に縋りつく。

 

 

甘い果実の誘惑に負けないために

人生は本来的に無意味で、人生の中で行われることは人生の為になりはするが、人生それ自体を有意味にしてくれることはない。人生にとって有意味なことはあるが、人生そのものが有意味になることはありえない。有意味なことばかりをしていると、時々その確固たる事実を忘れてしまう。人生には意味がある、あなたには価値がある、なんていう甘い果実をついつい手にとってしまいそうになる。別に甘い果実をそのまま食べてしまってもいいのだが、私はその甘さにやられて胸焼けしてしまうタイプの人間なので「甘い!美味しい!最高!」と一通り味わったあと、時間がたつにつれ胸が苦しくてたまらなくなるのだ。だからそういった果実を過度に甘く感じないように、過度に摂取してしまわないように、時々無意味な行為をしてそのバランスをとるのである。有意味なことはあくまで人生にとって意味があるだけ、という事実をそのまま見つめるために、有意味でない人生の為にならない行為をその合間合間に差し込むのだ。

 

 

ひとりの人間である以前に、私は私として存在する

無意味な行為は虚無を連れくるのと同時に、私を人生の奴隷から一時的に解放してくれる。その間だけ私は「生きていない」のだ。私はただ私として存在している。生物や人間であるが故に生まれている制約やしがらみから解き放たれて、ひとりの人間である「以前」に、偏に私として存在することができるのである。

 

 

というのは嘘である

しかし、「人生-生活=?」または「私-人間=?」「有意味-意味=?」といった式をたてた時、そこには何か残るだろうか?何も残らないのである。人間から生活をとり上げれば、塵ひとつ残らずに全てが消え失せるだろうし、私から人間をとりあげれば、そこには最初から何も存在していなかったことになるだろう。私のいう無意味な行為も結局は私の胸の苦しさを軽減する意味を持っている。生活に無益な行為なんて人にはそもそも許されていないし、本当に人間をやめることも誰にもできはしない。

 

 

無意味という意味をもつ行為

人間には生活するしか能がない以上、完全に無意味な行為をすることは確かにできない。しかし現物的な利益を生み出さず、自分の生活を好転させる訳でもなく、してもしなくても大して何も変わらない無意味に限りなく近い行為は存在する。それは自分の気持ちを少し晴れさせたり、和らげてくれるだけの行為である。我慢や忍耐という能力が人間にはあるのだから、それらの行為は端的に必要のない行為と言える。しかしだからこそ、それらの行為は意味を持つのである。"無意味"という意味を。

f:id:kabiru8731:20210810194851j:image