底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人間はよりよくなることをやめられない

よりよいを諦めた

よりよい自分になる、ということをいつしか諦めた。経済的裕福の追求、人格的成長、自己肯定感を高める、スキルの向上、要領よく何かをこなす、とにかくそういったありとあらゆる自分がよりよくなるための行為を、ある時から私はぱったりとやめてしまった。なぜかと言えば、やめることでしか生きていけなくなったからである。

 

 

就活が怖すぎて性格が変わった話

大学卒業前、私は就活という壁にぶち当たった。いやぶち当たる以前に対峙すらしていないのだが、とにかくなぜだかわからないが、就職活動がこわくてたまらなかった。結局一度も就職活動をすることなく私の大学生活は終わりを告げた。そこからというもの、何かの糸が切れたかのように、私は開き直ってしまったのだ。怖いものに向き合わなくて何が悪い、というなんともふてぶてしい性格になり、自分の怖いと思うもの、不快と思うものを避け続ける人生を今でも送っているのである。たぶんもう人生の軌道修正が不可能であるから、それらを克服することの意味を喪失したのだと思う。

 

 

絶望とよりよいの関係

本来、よりよくなることの意味は「よい」というそれだけで賄える。よりよいということは、今と比べて「よい」のだから、それを目指すのは極めて自然なことである。しかし、絶望を前にすると事情は一変し端的にそうではなくなる。「よい」ということの価値は絶望によって絶望的に否定されうる。「よりよくなって何になる…」という悪魔的ささやきが聞こえてしまった時、人は停滞を余儀なくされるだろう。よりよいはとめどなくきりがないことを絶望は教えてくれる。だからよりよくなることには意味がないと、そう結論づけたくなってしまう。しかし本当にそうなのだろうか?よりよくなることには確かに際限がない。だが、だからといってそれを目指すことに意味がないとは言えないのではないだろうか。「よい」ことの意味が「よい」である限りなんぴとたりとも、その価値を覆すことはできないだろう。なぜなら「よい」というのはそれだけで絶対に価値であるのだから。

 

 

人間はよりよくなることをやめられない

それに、そもそも人間に「よりよくならない」なんて選択肢はあたえられているのだろうか?絶望を前に停滞するのも結局は「よりよさ」を追求しているからなのではないか?「よりよくなって何になる…」と問うことだって、要するによりよくなりたいが為に問うのだろう?何をしても人間が人間である限り、よりよいから逃れることなどできはしないのだ。ただ少し捻くれていて正当でないよりよさの目指し方があり、そしてその正当でないよりよさを拠り所にしているような人間が時たまいるだけである。

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