底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の人生のための道徳

道徳の立ち位置

道徳というのは何のためにあるのだろう。それはより多くの人間を生かし、より多くの人間が心地よい生を送れるためにある。人を殺してはいけない、人の嫌がることをしてはいけない、そう教えるのはそういう世の中になった方が皆が生きやすいからである。道徳とはつまるところ人間の道具なのだ。それに従うことは個人の自由であり、自分のよりよい生を送る為に必要である限りにおいて守れればそれでいいのである。道徳的善悪もまた、社会のひとりひとりの人間の生のためにある。その善は絶対的な善でなく、その悪も絶対的な悪ではない。人には道徳を盾にして他人を断罪する権利がないのはもちろんのこと、道徳的善を多く行ったからと言って人としての価値が上がるわけでもないのである。

 

 

道徳的善悪は絶対的ではない

しかし、このことはしばしば忘れ去られる。時に人は道徳的善を行えなかったことに自責の念を覚え、道徳悪を犯したことで自己嫌悪に陥る。また道徳的善行を積んだ人をヒーローだと祭り上げたり、道徳的悪を為した人をこれでもかと糾弾したりする。多くの場面で、道徳がもはやある種の神として信仰されていることが見て取れる。道徳は一体いつからこんなに偉くなってしまったのだろう。合理の点から見れば、恩恵を受けられる限りにおいてあることをし、メリットを享受できないのならそのことをしないのが当たり前である。こと道徳においても同じであるはずだろう。自分の人生をよりよくしてくれないのなら、逆にどうして守る必要があるというのだろう。

 

 

口で教える道徳は空虚

道徳は口で教えるものではない。人の嫌がることをしてはいけないなどと、いくらたしなめてもそれをする子供がいるのは、そのことをするデメリットが実感としてないからである。同様に人に優しくしなさいと、どんなに諭しても聞く耳を持たない子供がいるのは、そのことをするメリットをよく分かっていないからである。道徳を守らせたいのなら、まずその経験をさせてあげることが先決であるはずなのに、現実ではたいていそのことは省かれて、空虚な教訓が先に垂れ流される。

 

 

よりよい社会の為にはまず個人の人生が肯定されなければならない

そもそものことを言えば、道徳を守ることは生きていたいと思う人、人生を心地よく送りたいと思う人にとってだけ価値がある。だから、自分の人生がどうでもいいという人や、自分の人生をはやく終わらせたいという人にとってはなんら守る意味がないのだ。道徳的悪を犯した多くの人はそれを悪いと知らないのではない。単にそのことをするデメリットがデメリットではなくなってしまったのである。人間のための道徳であるのだから、自分のためにならないのなら守らないという態度は、ある意味でこれまでにない程正しいのである。

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