底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

いいものを見せるといい見せ方をする

いいものといい見せ方

いいものを見せるということと、いい見せ方をするということは全然違うはずだ。定義的には、いいものはどんな見せ方をしてもいいものであるし、どんなものをいい見せ方しても、それはいい見せ方であるだけで、元のもののよしあしとは全く関係がない。ただ現実において、その区別をつけるのが難しいだけである。いいものでも見せ方がテキトーだったりすると、よくないもののように見えてしまったり、全くよくないものでもいい見せ方をされると、なんだか元のそのものまで魅力的なように思えて来る、そういう錯覚に陥りやすいのである。

 

 

いい見せ方もいいものの一つ

錯覚と言い切るのは、しかし少し違うかもしれない。だって、いい見せ方も分類としてはいいものの中の一つに属している。つまりは、いい見せ方をするとは「いい見せ方を見せている」ということであって、その意味でいい見せ方も「いいものを見せている」のである。だから、人がそこから魅力を感じとるのも一面では正しいと言える。しかし、それでも区別は必要である。いい見せ方は所詮いい見せ方であるだけで、元のものがいいのかどうかは、結局そこから判断できるものではない。元のものの価値は、やはり自分自身で見極めていかなければならないのである。

 

 

人の場合で考えると難しい

実はとてもいい人なのだが不器用故に人に迷惑ばかりかけてしまう人と、実はとても悪い人なのだが器用故にそれを隠せていい人のふりが完璧にできる人がいたとして、一体どちらの方がよりよいのだろうか。神様の視点からすればこれは自明である。神様ならきっと直接にそのよさと悪さを見てとることができるのだから。しかし人に視点を移すとこれは微妙な問題になる。とりわけ後者の場合、もし本当にそのふりが完璧なら、もはや他人にはその人を悪人と分かる方法はない。人の場合、自分自身のいい見せ方を極めてしまえば、端的にいいものとして他人の目に映ることができるということだ。他の誰にもそれを見破る術はないのである。

 

 

理想と誠実

いいものをいい見せ方する。理想はやはりこれである。元がいいのだから見せ方はどうでもいい、というのは怠惰と傲慢だ。元のものがいいのなら、尚更それに最適な、それの魅力を最大限引き出せる見せ方をするべきである。逆によくないものはよくない見せ方のまま見せるのが誠実だろうと思う。見せ方だけよくたって仕方がないもの。たとえそうすることで、全ての他人を欺けたとしても、自分自身だけは元のものがどんなであるのか、嫌という程に知っているのだから。

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