底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログは記録であるから面白いのだ

一ヶ月半もかかった

私の文章は何かを言おうとしているようで、何も言っていない。文章のクオリティも低いし、自分でも読むのに一苦労する。昔(と言っても一か月前)の自分が書いたことはほとんど意味がわからないし、今と考えや思いが変わっているなと思う記事も沢山ある。最近ようやく、このブログの立ち位置が当初始めた時に想定していたところにおさまってきた。

 

 

二度と還ってこない思いを記録に

ブログの名前にある通り、私は「記録」として、このブログを開設したのである。この記録は他人の役には立たないし、将来の自分の役にも立たないだろう。じゃあ、なんの為に書くかというと、ただ今考えていることや思っていることを逃さない為にである。今考えていることや思っていることを一度逃してしまえば、たぶんもう二度と還ってこない気がするのだ。そんなすぐ消えてしまうような思いなら、残す意味なんかないじゃないか、 と思うかもしれない、確かにその通りである。何度も自分に立ち返り、自然と自分の中で反復されているような考えこそが記録するのに値する、ということに疑いの余地はない。今すぐにでも消えてしまうような思いや考えを残したいのは完全に自分のエゴである。

 

 

自分にしかできないことがしたい

私は自分にしかできない事がしたい、自分にしかできないこととはつまり、世の中には未だかつてなく、私によって初めて語りだされる類のことである。今この瞬間に生成された私の思いや考えは、私が書き残さない限りこの世のものにはならない。それはどこにも残らず、私の身体の寿命と共にやがて朽ちていくだろう。だから、それらを世の中に記すことは私にしかできない、それらを思っているのは常に私であるから、当たり前といえば当たり前である。私の思いや考えをここに書くことには、なんの価値もない、書かれていることも価値がないし、書くという行為にも価値がない。価値があるのは「私が」しているというその事のみである。

 

 

と言いながら時間ギリギリ駆け込み投稿

私にしかできないことをしたいのは、代替が効かない、ということが私にとって魅力的だからである。私の能力や容姿や才能や性別や年齢、その他さまざまに価値があるから、私にしかできないというのではなく、私が私であるという、私が私である限りにおいて(つまりは私が死ぬまで)は絶対的に変わることの無い事実に代替できなさがある、その圧倒的安心感に私はどっぷり浸かっていたいのである。書くのが下手でもなんでも、自分にしかできないという使命感を喜んで背負いながら、きっとこれからも私は書き続けるのだろうな。

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