底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

綺麗事は語られることで汚くなる

綺麗事は嫌われている

綺麗事はたいそう嫌われている。なぜならそれは現実を無視しているからである。現実を全く顧みず、そこに蓋をしようとしているからである。現実を踏まえることなく、現実から離れたところで「私は正しい」と主張するその卑劣な態度が、綺麗事が疎まれる原因の一つであろう。しかし、現実においては何の役にも立たないどころか迷惑をかけてやまないそれが「綺麗」事と呼ばれているのは興味深いことである。もちろん皮肉で呼ばれているという可能性は否めない。皮肉であるなら「綺麗なだけで地に足がついていない全く役に立たないもの」という意味がそこに込められているのは想像に難くないことである。だが、どんなに皮肉であろうとも、綺麗であることはやはり認められているのだ。

 

 

「綺麗」事

綺麗事と現実の乖離に面した時、現実を変えられないからこそ、人は綺麗事を疎ましく思う。「そんなことできるならとっくにやっている」よく耳にする言葉である。現実の変わらなさに絶望している人々の前では確かに綺麗事は無力に思える。だがそういう人々とて、綺麗事のことを「綺麗」事と呼ぶのだ。つまり「できるなら」、そういう条件つきでなら、彼らにとっても綺麗事は目指したいこと目指すべきこと、とされているということである。

 

 

悪いのは人間って相場が決まっている

綺麗事は悪くないのだ。悪いのは、綺麗事を口にするというその行為の方である。綺麗事を口にしても、それは何の役にも立たないのであり、むしろ場合によっては害になり得るとはっきり自覚していない人間の方に落ち度があるのだ。既に死に憑りつかれた人に「生きろ」という言葉がどれほど虚しく響くかを、暴力をふるわれて来た人に「人間同士きちんと話せばわかり合える」などと言うことがいかに残酷であるかを、言う方はきちんと知るべきである。

 

 

他人に向かって語る綺麗事は汚い

どんな綺麗事も人の口を通してしまえば、汚いことになる。綺麗事は「綺麗」事であるが故に、それを目指すことに動機はいらない。だが他人に向かって語るなら話は別である。なぜ他人に語るのか、その理由は得てして不純なものだ。綺麗事とは本来独りで黙々と目指すものである。むしろ、黙々と独りで目指されているそのものだけを綺麗事と呼ぶべきなのだ。他人の現実をよく知りもせず、易々と口にされているような綺麗事は、もはや少しも綺麗ではない、それどころか端的に汚いものである。その汚さをこそ、人は嫌悪しているのだろう。綺麗事それ自体はとても大切でよいものであるように思う。問題は、それを他人に向かって語ると変質してしまうことにある。

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