底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

距離を置く必要と罪悪感

距離は大事なんだけど…

何事にも距離が必要である。近ければ近いほどよいというものでははない。近づきすぎれば全体像を掴むのが難しくなり、そのものを正確に把握することが出来なくなったり、そのものをするために必要な日常生活の方が疎かになってしまう。道理としてこれはよく分かる。しかし好きなものには近づきたくなるのが人の性というものだろう。個人的にこのバランスをとるのが酷く難しい。距離を置く線引きがどうしても好きに対する熱意のセーブに感じられ、その罪悪感との戦いを常に強いられる。立ち止まってこれ以上は近づかない勇気を持つのがとても困難なのである。

 

 

好きだよ馬鹿

寝る間も惜しんで何かをすることは、普通に言えばただの馬鹿である。きちんと睡眠時間を確保し生活習慣を整えてこそ、頭は冴えるのだし体力も維持していける。好きなことをより進めていくためにはどう考えてもそっちの方がいい。誰にでも分かることだ。だが私はそういう馬鹿が好きだ。たとえ寝る間を惜しんでやった結果なんの成果が出なかったとしても、寝る間も惜しんでやったというそのことだけで価値があると私は思う。それは「他を顧みず好きなことをやり続けた」という何ものにも替えられないほどの素晴らしい価値である。

 

 

無駄な人生の唯一の意味

人生は最初から全てが無駄である。予め必要とされて生まれてくる人はいない。いや仮にそういう人がいたとしても、その人が「自分」である必要はやはり全くなかった。偶然の元で生まれ偶然の元に死んでいく。そんな中で何か一つ意味のあることが残されているのだとすれば、それは徹底的に人生を無駄にすることだろう。最初から無駄である人生に従い忠実に無駄に生きるのである。それはつまり何もしないということだ。厳密に言えば何もしなくてもいいように人生の歩みを進めていくことなのだ。

 

 

頭がよすぎる

本当に何もしないことは人間にはできない。生きている限りは常に何かすることを人は強いられる。だからここでの何もしないとは、できるだけ自分に逆らわないということだ。在り来りな言葉で言えば、自分に正直に生きるのである。「あえて」何かをするのをできる限りでやめていく。それを全てをやめていった先に待ち受けているのが、自分の好きだけをする人生なのだ。必要という概念を捨てたならここに至るのは必然である。しかし好きだけを行なうのはやはり絶対的に効率が悪い上に身体も壊しかねない。結局好きなことをいっぱいするためにこそ適度な距離が必要になる。人は頭よくなりすぎた。効率や影響や結果を気にせずただ好きだからやる、ということがもうできないのである。

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