底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

タイトル

本文はおまけ

私のブログ記事の価値は九割タイトルにあると思っている。本文は常にそのタイトルが如何なることを言っているのかという説明であり、ぶっちゃけタイトルだけで言葉の意味が分かるのなら端的に読む必要などない。私が言いたいことも本当はタイトルだけで完結しているが、文脈を共有しなければ当たり前に自分が何を言っているのかは分かってもらえないので、しぶしぶその理解の補助として、後に千文字付け加えているのである。もちろんこれは自分のためでもある。過去の思考を振り返る時に、ワンフレーズしかないのでは当時の自分が何を考えていたのか、さっぱり分からなくなってしまうので。




誰でも見えること

タイトルとは私の着眼点のことなのだ。つまり世界の切り取り方である。このブログは他人に向けては総じて私という視点からは世界はこういう風に見えますよという案内であり、自分自身に向けてはなべて過去の自分の着眼点を思い出すための記録である。「私もそういう風に世界を見たことがある!」という人にとっては、もはやタイトルだけで、記事の全貌が掴めるに違いないと確信している。そして、同じような切り取り方をしたことがない人にも「ここに立てば見えますよ」と言える記事をできるだけ提供しているつもりだ。人によって違うものではなく、誰でもそこに立ったなら同じ景色が見えるはずだ、ということを書くように心がけているのである。なぜなら、それこそが言葉の価値だと私は信じているからだ。




何ものにも代えられない価値

物事はまず何よりも見つけるのが難しいと思う。見つけた後にそれを正しく評価したり位置づけたり活用したり対処したりするのも大変とは思うが、それでもやるべきことが目の前に提示されているだけやはりましである。見つける方はまず何を見つければいいのかさえ分からないのだ。だから当然手掛かりなんて少しもない。見えたり感じたり思ったり考えたりしている全てを、ヒントかもしれないと地道に一つ一つ疑ってかかるしかないのである。もちろん全てを疑ったところで必ず見つかるという保証もない。できることは、とにかく人事を尽くして「見つけた!」となる瞬間が来るのをじっと待つだけである。私はその瞬間に得たものをここに書いているのだ。伝えたいのはいつも私にとっての新事実だけであり、もし誰かに「で?それがどうした?」と問われても「どうもしない」としか答えられないようなことばかりである。一言で言えてしまう上に、その事柄から直ちに何かの意味ある結論が導き出せるわけでもない。だが、自分の手でこの世界から一つの事実を抉りとったのである!それだけで他の何ものにも代えられない価値がそこにはあると思うのだ。