底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

【今週のお題】好きなスポーツはありません

今週のお題「好きなスポーツ」

好きなスポーツはありません。

 

 

毎回お題に苦しむ

はてなブログを始めてからというもの、毎回今週のお題に苦しめられている。何故いつも私の領域外のことばかりお題に出すんだ。いや、お題は悪くない。単に私の領域が狭すぎるのだろう。改めてそれを認識したよ。

 

 

運動を退け続けた人生

好きなスポーツと言われましても、こちとら生まれつきの生粋の運動オンチでありまして、運動会や部活なんてものには苦い思い出しかないし、普通の体育の授業でさえ、ひとりだけできなさ過ぎて先生とマンツーマンで居残り運動するなんていうとんでもないイベントを発生させたくらいである。そんな私に好きなスポーツとかあるわけが無い。スポーツの楽しさに目覚めるためのセンスが皆無なのだから。しかし、何もスポーツは「する」だけが好きを表すわけじゃないだろう。「みる」のだって立派にそのスポーツへの愛を示している。そう、私はみる方なら好きなのだ……ということはない。みる方もする方もからっきしダメである。運動の楽しさに少しも触れることなく四半世紀を生きてきたのだ。さて、そんな私が好きなスポーツについて何を書いたらいいのだろう。

 

 

スポーツの楽しさは競争と成長

スポーツというのは何が楽しいのだろう?運動できない故の僻みな問ではなく、その本質についてきちんと考えることにしよう。だいたいのスポーツが他人と競ったり戦うという方式なのが私的には興味深い。他人と自分を比較し、他人より秀でるように頑張ることがスポーツの一面の楽しさであることは間違いないだろう。しかしもちろんそれだけではない。打てない球が打てるようになったとか、短距離のタイムが縮んだとか、より綺麗なパフォーマンスができるようになったとか、そういう楽しさも考えられる。こちらの楽しさの根源は成長であろう。

 

 

下手の横好きって言うんだっけか

私はあらゆるスポーツの競争で一度も勝てなかったし、何度やってもちっとも進歩しなかったから、全然楽しくなかったんだろうな。しかし、全然人に勝てないし、ちっともうまくならないのにあるスポーツを好きだという人もいるだろう。そういう人の「好き」はとても面白みがある。他人に勝利するとか、自分の成長を感じられるとか、そういうメリットなしに、ただそのスポーツが好きである時の「好き」こそ、本当の好きであろう。傍から見たら、なぜそのスポーツを好きなのか一切理解できないのに、本人は楽しくてしょうがないということに「好き」の不思議が詰まっている。好きな理由なんてない、気づいたら好きだったんだ、ということが好きの本来ある姿なのではないだろうか。そういう意味であるスポーツを好きな人はどのくらいいるのだろう?あんまりいないような気がする。

 

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