底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

具体を観察することから

抽象に偏っている

なんでも抽象的にものを見てしまう。人生はだいたい生と死の二つ、存在はだいたい私と世界の二つ、人は第一人称の私、第二人称の見知った人、第三人称である赤の他人の三つ。そうやってなんでもすぐに形式だけを取り出して、内容の方をおざなりにしてしまいがちだ。偏った見方だとは自覚しつつ未だに直せないでいる。具体的なものを見たり覚えたりするのがたいそう苦手なのだ。毎日の出来事とか、世界の中のものとか、人それぞれの違いとか、そういうものは全然頭に入ってこないのである。




気づきました

今まではそれで特に不便も感じていなかったので、まぁいいかと気にせずに来たのだが、最近改めたいと思うに至った。というのも抽象はやはり具体から出発しているのだから、具体の認識精度を疎かにすれば、抽象化そのものを失敗する可能性があるなと反省したのである。抽象的な概念を考えるのも結構だが、それにはまず具体的なものをきちんと観察する必要があるのではないか。何をぼやけさせ何をくっきり残すのか、正しい判断を下すためにも怠ってはいけない部分であるはずだ。そんな当たり前に今更やっと気づいたのである。




具体を一つ一つ考えなければならない

例えば、死ぬこと一つを考えるにしても、そもそも死ぬとは何かと問うなら、まずは生き物が死んでいく過程をきちんと知る必要があるだろう。ただ頭の中で死とは何かと考えても始まらない。人間の場合はまず肉体と意識に分かれ、肉体は動かなくなり冷たくなってやがて肉が朽ち骨だけが残る。意識の方はあるとないの二つだけだが、徐々に段階的に意識が薄れていくケースもあるだろう。また一口に人間と言っても、私と他人という人称による違いもあるし、他人ももちろんそれぞれで差があるだろう。死ぬとは何かと知るためには、まずは具体的なそれらを一つ一つ丁寧に解きほぐしていく他ない。その作業を飛ばして抽象化を急いだり、概念だけを取り出して考えても、それは全く地に足がついていないただの空想になってしまう。




具体を観察することから

それに単純に、細分化し具体的に世界を見る方がきっと楽しい。小さな違いにも気付けるので毎日を新鮮な気持ちで過ごすことができるはずだ。あぁ今日も生きている、今までそういう風にしか自分の人生を捉えてこなかった。それはそれで楽しかったけれど、具体的な視点を併せ持ったらもっと色々な楽しさに出会えるのではないか。もっと色々なことに気づけるのではないか。抽象化はその後で遅くないはだろう。まずはしっかりと具体を見つめ観察すること。今日から意識的に実践していきたい。

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