底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

周りの尊い選択によって生かされている

ルールを信じられない

横断歩道を渡る時私はいつも駆け足になる。なぜなら轢かれたくないなと思うからである。もちろん自分が狙われているなんて考えている訳じゃない、ただルールというものを私は信じられないのだ。車の運転手は赤信号をみて自らブレーキを踏んでいるだけで、物理的にはアクセルを踏むことも可能である。私は彼らのきちんとブレーキを踏むという選択によって今まで轢かれずに済んでいるだけであって、彼らは赤信号なら必ず止まるようにできているのではない。

 

 

つまり裏を返せば…

関係ない他人でも死ぬのは悲しいと感じる人、なんであれ生きている方がよいと思う人が多いから今の社会は成り立っているに過ぎない。ルールというものの強制力はそんなに強くない。だって罰を与えるのが関の山であろう。即ち裏を返せば罰をうける覚悟があるならその行為を行なってもよい、ということになる。そして、その一番重いものとして死刑はあるが、これも要するに死を覚悟したならもう何をやってもいいよ、ということだろう。人間のつくるルールの限界がここにある。失うものが無い人間には、ルールなどただの塵である。

 

 

悪いことはなぜしてはいけない?

悪いことはしてはいけない、と誰も彼も思っている。しかしその「いけなさ」は何によって担保されているのだろうと考えるといまいち判然としない。「悪いけどどうしてやってはいけないの?」と問われたら、一体どれだけの人がそれにハッキリ答えることができるのだろう?少なくとも私には無理である。現段階で私が捕まるような悪いことをしていないのは、する理由がないからである。悪いことをしなければ死ぬという場面に遭遇した時、それでも絶対に悪いことをしない強い意志を持っているかと聞かれると、私はあまり自信が無い。「いけない」とは所詮その程度のことではないか、この世における「いけない」はせいぜい「しない方がよい」と同義である。その人が悪いことをする決意をしたのなら「いけない」なんて言葉はクソの役にも立たないのだから。

 

 

周りの選択のおかげ

社会にいるほとんどの人が「殺さない」選択肢をとっているおかげで今日も私は生きている。これは当たり前のことでは全然ない、人を殺すことを狂気の沙汰と考える人もいるが、あれはどう見ても正気である。正気の上で殺すことを選んだのだ。殺人事件など毎日どこかで起きているのだから、それが自分の身近にないだけで「異質」と捉えるのは明らかに変である。悪いことをする自由は常に誰しもに与えられている、それを自分の周りの人がたまたま選んでいないだけである。

 

 

いつも安全運転ありがとうございます

「赤信号の時は車を発進してはいけない」というルールがあるから、車が止まっているのでは決してない。それはいつも運転手の尊い選択によって止められているのである。

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