底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

要は四連勤嫌だなというだけのお話

予定のある前日って気が滅入るわ

明日からまた四連勤、気が滅入っている。別に働くこと自体は嫌いではない、ただ未来に予定が入っているということが私をげんなりさせている。未来が決まっていると、そこから逆算が始まり今の行動も制限されてしまう。「あと何日、あと何時間」そう考えるだけでもう何もかも放り出したい気持ちになるのである。

 

 

今ここにいる私こそが全ての始まり

今ここにいる私は実際に存在する、その事実こそが全てのことを支えている。未来とて今ここにいる私の頭の中の一つの現象に過ぎない。未来の予定に今の私がが引っ張られるということはこのことの逆転を意味する。まるで未来のために私が存在しているかのように扱われるのだ。その事がとても不快である。今ここにいる私の存在は実際に存在するが故に、それは何からも優遇され、何からも自由であるのが本来である。それこそが実際に存在するということの意味なのだから。しかし、現実問題そんなのは無理である。一人の人間として生きていく以上、必ず未来を見据えなくてはいけない。未来になにひとつ予定を入れないで済むことはありえない。

 

 

現実とどう折り合いをつける?

なら私はどう未来と折り合いをつければいいのだろう。未来を意識しないことによって?いや、そんなことをしても未来を意識しないことを意識することが始まるだけであろう。根本的な解決にはならない。やはり受け入れるしかないのだろうか。未来を考えて未来のために忙しなくあれこれ準備している自分をも、今の実際に存在する自分の中に入れてあげる。そしてその自分をどう楽しむかを考える。そのようにしか解決はできないのかもしれない。妥協と言えば妥協だが、案外面白そうではある。つまり未来のためにあくせくしている自分を他人事のように眺め、一喜一憂しているその自分の反応を楽しめばいいのであろう?性格の悪い私には持ってこいのゲームじゃないか。

 

 

傍観者であり続ける

結局私はそのようにしか生きられないのだろうな。現実から目を背けるために後ろ後ろへと逃げていき、何に対してもどんな時でも傍観者である振りをする。己の人生に対してさえどこか他人事のように野次を飛ばしたりするだけである。やはり私は死を恐れている、だからいつ死んでもいいように備えているのだろう。未来のせいで憂鬱になっている時に死んだらきっと後悔するに違いない、しかしだからといって、未来を投げ捨てて今の自分を最優先して死ななかったらそれはそれで別の後悔が残る。生きる方にも死ぬ方にも賭ける勇気がないので、傍観者という立場に居座る。選手側ではなく観客側であれば試合の勝ち負けはおまけで、どんな試合もたいていは楽しめるものだろうから。

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