底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

充実した生と真実の死は相容れない

ブログを書き始めて二ヶ月が経った

うぇぇブログ書きたくないと思っていたらもう夜の九時半、さすがに書き始めないと間に合わないので、観念して書いている。毎日投稿をやめるとか言いながら、なんだかんだ相変わらず毎日投稿している。宣言した意味は一体どこにあったのだろう、自分でもよく分からない。そう言えば、今日でブログを書いて二ヶ月が経った。まだ二ヶ月なのか、もう二ヶ月なのかはよく分からないが、体感では割とあっという間だった。もちろん色々苦労もしたが、やっぱりやりたいことってだけあって、とても充実した日々を過ごすことができた。

 

 

ブログを書いてきてよかったのかな

だが、もし今誰かに「ブログを書いてきてよかった?」と聞かれたら、私はたぶん口ごもると思う。少なくとも心の底から「本当によかった」とは言えない。なぜなら書くことは結局私にとって承認欲求を解消する行為になっているからだ。承認欲求を持つことは別に悪いと思わない、ただ個人的にはどこまでも持ちたくない。私が人生で目指していることは自己完結なのである。「死ぬ時に後悔したくない」これが私の人生の揺るぎない目標なのだ。だからそのためには承認欲求みたいな先が見えない、キリがないような欲求を持つことはできる限りにおいて避けたい。今死んだらきっと私は、まだまだ読んで欲しかったなという後悔を遺すに違いない。

 

 

書かないために書く

書かないために書いている、それが私の現状である。書くという欲求を満たしたい、早く満たされてやめてしまいたい、そのために書き続ける悪循環にすっかりハマってしまっている。たぶん本当は麻薬の治療のように、今すぐにでも書かないという選択肢をとった方がいいのだと思う。無理やりにでも書くことから自分を引き剥がして、その禁断症状にしばらく耐えて、元の生活に戻っていくのが目標に向かうための正しい手段なのだろう。

 

 

充実した生

だがどうしてもその一歩が踏み出せない。このまま麻薬漬けになって理性がとんで、ただ取り憑かれたかのように毎日文章を書き続ける生活も悪くないんじゃないか?そんな考えさえ頭をよぎる。きっとそれはそれは実りある人生になるに違いない。毎日書くことだけを考え、書くことのためだけに生きるのだから、それを幸せと言わずしてなんというのだろう。

 

 

真実の死

しかしたとえそんな幸せな生を送っても、やっぱり私は確実に死ぬのだ。その判然たる事実を前にして充実した生にどんな価値があるというのだろう。むしろ充実すればするほど、自分がもう間もなく死ぬという事実が隠蔽されるだけであろう。死に向き合わずして死ぬなんてそれこそ後悔しか残らない。

 

 

人生はクソゲー

生に基づいた真実をみつめない充実人生か、死という真実に基づいた虚しい惨めな人生か、そのクソみたい二択の前で、結局私はいつまでも立ち竦んでいる。

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