底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私的、底辺の存在意義

よくこんなに「いい」名前をつけたな

「底辺人間記録」改めて見ると、本当酷い(褒め言葉)名前をつけたものだなと思う。始める前それでも色々悩んだのだが、この候補が浮かんだ時、もうこれしかないなと直感した。やっぱり「底辺」は私にピッタリな単語である。

 

 

生涯底辺宣言

私が私を「底辺」と名乗るのは事実そうだからである。あと本当はちょっぴり誇りも持っている。くだらないプライドなのだが、私は底辺であることに意味を感じているのだ。底辺以外の人生を歩みたくない、底辺と生涯を共にして死んでいきたい、そう思っている。もちろん底辺以外の人生など、そもそも私には選べないのだがな。

 

 

人間としての価値ってなんだろな

社会的にも精神的にも頑張れない、言い換えると「自分を変える」ということが私にはまるでできないのだ。それは私が頑固とか、生き方に確固たる信念があるからではない。ただ単に変える理由を持たないのである。なぜ変えなくてはいけないのか、どうして向上しなければならないのか、全然分からないのだ。その方が生きやすいというなら、私は今でも充分に生きやすい。その方が人生が楽しいというなら、私は今でも充分に人生が楽しい。その方が人間としての価値があるというのなら、その価値にはいかなる価値があるかと私は問いたい。

 

 

性質に逆らわない

誰しも生まれ持った性質がある。もちろんそのことで人生の全てが決まる訳ではないが、私は端的にその性質を否定したくないなと思う。その性質を抱きしめたまま、私は死にたい。たとえそれが「底辺」なのだとしても、どんな惨めな死に方をしようとも、性質の導くままに決して逆らわずに人生を終えたいのである。なぜならそれが私という人間だからだ。

 

 

そう言えば最近暗い記事多いね

人生には生きる価値がない。それが私にとっての真実である。だから自分を曲げてまでする必要のあることなど人生にはない。生まれて生きて死ぬ、ただそれだけのことをただそれだけのこととして、そのままに受け止める、私の人生においてやる価値があることはそれのみである。いや、それとて価値はない。私がやりたいと思うからこそ、そこに価値を感じているに過ぎない。本当は何もかも価値などないのである。

 

 

底辺の存在意義

底辺であることを誇るというのは決して開き直ることではない。ただ誰になんと言われようと底辺であることをやめずにやり通すことである。そんなことに何の意味が?と思うかもしれない、それでいいのだ。他人に理解される必要などない。むしろ理解されずに、頭がおかしい馬鹿と捉えられてこそ意味がある。救えない底辺と他人に思われて、後ろ指をさされ続けて死んでいくことだけが、唯一底辺の存在意義なのである(と私は信じている)。

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