底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ただ生きている以外って何があんの?

甘い果実ではあるね

「ただ生きているだけで価値がある」こういった謳い文句は得てして苦手である。それが真実ではないという極めて単純な理由によって。ただ存在するものはただ存在するというそのことにおいて価値ではありえない。なぜならそれがただ存在するという言葉の意味だからである。ただ生きているだけで価値というのなら、ただ死んでいるだけでも価値になり得ないと変である。生きていることにのみ特別に価値を与えるのはもちろん個人の自由であるが、それはどこまでもそう思いたいという各々の恣意的な選択の結果に過ぎない。

 

 

ただ生きているのではない人間ってどんな?

だいたい「ただ生きているだけ」という時の「ただ〜だけ」は何を排除している言葉なのだろう。ただ生きているだけでない人間を、少なくとも私は見たことがない。全ての人の人生は生きているという基盤の上に成り立ち、生きているという範囲の中に収まる。生きているとはそういうものではないのだろうか。「何か特別なことをしなくても大丈夫、ただあなたのままで存在していていいのよ」といった、切なるメッセージがここに込められている事は想像にかたくないが、そもそもただ生きているのではない人間なんて存在しているのか、私には甚だ疑問である。

 

 

そう願う≒そうでない

人生に価値があると思いたい。これは人間の普遍的で不変的な願いであろう。だがそれが古今東西で願い続けられているというその事が、まさに人生は価値ではないというその事を現しているのではないだろうか。ちょうど人々が神に祈りを捧げ続けるのと同じように。

 

 

ニートの戯言

「大丈夫だ、全てのものは価値ではない」私なら確実にそのような言葉を口にするな。どんな偉業を成し遂げた人生であろうと、呼吸を繰り返しただけの人生であろうと、それらは等しく価値ではない。だから、ただ生きるだけでない特別なことができるなんてのは幻想である。どんな人にも最初からただ生きる以外のことはできはしないのだから、人には人生に絶望する権利さえないのである。生きるも死ぬも「したい」に基づいて勝手にすればいいのさ。

 

 

正当性いるか?

生を上げて死を貶める、そんな構図が私は酷く気に入らない。生きていることに価値を認めるのなら、死ぬことにも価値を認めるべきであろう。生きていたいと思うなら、ただ生きればそれでいいではないか。「生きていることには価値がある、だから私は生きている」なんてわざわざ正当性を持たせるような言い方をする必要がどこにある。価値があると思わなきゃ生きていけないような人生、それこそ価値はあると言えるのだろうか。

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