底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

日常の会話で大切なのは形式

分からないですけど…

人に何かを聞かれた時、決まって私は「分からないですけど…」という枕詞をつけてしまう。自分の好みに対する質問でもなんでもそう、「食べ物は何が好きですか?」と聞かれても「好き」の定義を気にしてはっきり答えるのを避けてしまう。自分でもめんどくさい自覚はある。だが胸を張って断言する後ろめたさに耐えるのはなかなか難しいものがある。

 

 

めんどくさい奴の戯言です

日常の会話というのは驚く程に定義や前提の共有がなされずに話が進んでいく。それってどういう意味ですか?とか、何を前提に話してますか?なんて確認する間は全然なく、言葉の応酬が続いていく。例えば「彼氏と別れた方がいいのかな?」という時の「いい」は「彼氏と別れた方が幸せかな?」なのか「彼氏と別れた方が自分らしくいられるかな?」なのか「彼氏と別れた方が心が安定するかな?」なのか、或いはもっとほかの意味なのか、たいていの会話はそういったことを確かめることなく、「いい」とか「よくない」とかのやりとりが行われる。「何が」「誰にとって」いいのかよくないのか、曖昧なままに話は進み、いつの間にか結論が出されている。私はとてもこれに困惑してしまう。もちろん本人たちがそれで納得しているのならそれに越したことは無い。私が一方的に驚いているだけである。

 

 

お門違いだけど私のブログなので書かせてくれ

なぜそれでも会話が進むのかといえば、日常における大方の会話とはまさに会話するというそのことが目的だからであろう。何を話すか結論がどうなるか、そんなのはさして重要ではない。大切なのは、話す・聞くという行為の形式の方である。親密な関係である友人が、家族が私の話を聞いてくれている、そのことだけでおおいに救われるのだろう。初対面の人と会話する時とて同じである。知らない人の好きを聞くのは、その人の好きを知りたいからではなく、聞いたり聞かれたりするやりとりを何往復も重ねることによって、打ち解けることができるからである。会話の内容などほぼほぼどうでもいいのだ。そこに精緻な会話を求めるのはお門違いというものである。

 

 

いつもオチがテキトー

他人と親密になるという経験が私には全然ないので、未だにそういった会話に慣れない。本質的には理解しているのだが、実践するのは難儀である。こういう奴は端的に他人と仲良くしようなんて思うべきではないし、向こうもこんな奴と仲良くなるのは願い下げであろう。私には一対一のやりとりより、こうして自分の好き勝手書けるブログの方が向いている。抽象的な他人に向かって話す気持ちよさ、一度覚えたらやめられんね。あれ?なんの話だっけ。

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