底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

就活はやめて終活する

就活やめました

ここ最近人生初の就活を始めようと色々準備していたのだが、やめることにした。やっぱり私には無理である。もう間もなく死ぬ短い生で「いっぱいお金を稼ぐ」とか「他人の役に立つ」なんてことになんの意味があろうか。そう考えると今以上に虚しい人生しか待っていないような気がして、モチベーションをすっかり失ってしまった。と言っても生きていくためにはお金が必要なので、なんとか就活せずに別の方法を模索しながら、暫くは貯金を崩しつつ生活を送ろうかなと目論んでいる。

 

 

 

久々の無職

そんな訳で九月が終わったら私はいよいよ「無職」の肩書きを手に入れる。既に何回か経験済みではあるので慣れているといえば慣れているが、なに分一人暮らしでコロナ、おまけに精神が激弱なので鬱になったりしないかが今のところ心配ではある。整った生活リズムと他人との会話の場は確実に仕事によってもたらされていたので、それらが一気になくなることは想像するだけで少し頭が痛くなる。

 

 

余生のはじまり

これから何をしようなんてワクワク感は私にはない。叶えたい夢もなければ未来の目標も特にない私にとって人生とはもはや余生である。どう死にたいかを考え、死ぬとは何かを考え、好きな時に執筆をする、そんな過ごし方がもう目に浮かぶ。今私に求められていることは、孤独に耐えられる程の何かを身につけることと、安定的な精神をつくりあげることである。

 

 

ひとりと孤独

私はひとりは大好きだが、孤独は嫌である。違いはなんとなく察していただける気がするが、要するに権利の有無である。ひとりは自らの選択の結果で、孤独は強いられているものである。ひとりはふたりになることも容易いが、孤独は永遠に孤独である。人は誰しも「最初から」孤独である。一人で生まれ一人で死んでいく。だがその一人の誕生と死亡に挟まれた生存だけは二人になったり或いはそれ以上になることが出来る。孤独同士で寄り添ったりできることが、誕生にも死亡にもない生存だけの特権である。私はその特権を欲しいと思うし、自分にないと言われたら納得がいかないくらいにはまだまだ精神がお子ちゃまである。

 

 

レッツ終活

私が真に行うべきは就活ではなく終活であろう。それも身辺整理などの物理的なものではなく、精神の終活が必要である。精神の終活とは言うまでもなく、死への覚悟を決める活動である。と言って何か特別なことをするのではない。ただ今までよりほんの少し自分を大切にするのである。「あー今なら死んでもいいなぁ」と常に思えるように悔いのない人生を送るのだ。

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