底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

親子関係をとても不思議に感じる

ワクチンに勝ったなり

ワクチンの二回目を打ってきた。一回目と同じく腕が痛いくらいで、それ以外の副反応は今のところ現れていない。おかげで今こうしてブログの執筆に勤しんでいられる。激しい副反応を予想して、一人暮らしのアパートから実家に帰ってきたのだが特に必要はなかったようである。まぁこういうことが取り越し苦労で終わるというのは幸いなことだな。

 

 

久しぶりに人と喋った

実家に帰ってきて、三日ぶりに他人と言葉を交わした。普段からあまり喋る方ではないので、別に驚くことは無いのだが、仕事をやめると本当に人と会話する機会がなくなるのだな〜と少し新鮮な気持ちである。親のことを他人呼ばわりしているなんて、バレたら確実に怒られるな。うちの両親はなんというか家族の情などを比較的重んじるタイプなので、よそよそしいことを言うと必ずといっていいほど嫌な顔をされる。だがそれでも私にとって家族とはどこまでも他人である。自分に近しい人間はどれだけ近かろうとも自分ではない、というそのことによって他人なのである。

 

 

 

他人である前にわが子なんだぜ…信じられるか…?

家族という関係は様々な人間関係の中でも奇妙である、特に親子なんてものはとりわけ変である。子供と親の関係が形成される時、そこに他人という概念が入る余地はない。これから産まれる子供はひとりの他人である前に自分の子供なのであり、産まれた子供にとっても親はひとりの他人である前に自分の親なのである。子供を産む人は概して「うわ、ひとりの他人が産まれた」とは思わず、なぜかそこに産まれたのは最初からわが子であるといったような態度をとっているのである。

 

 

 

本物の家族と家族ごっこ

私にはどうもそこらへんの感覚が欠落している。この「わが子」というのはなんだ?それは他人とどう違う?なんてことを問いたくなる。両親が私のことを「わが子」として接している時、なんだか私は不思議な気分に陥る。私にはその腹から生まれた記憶はないのだし、例え覚えていたとしても、私は産まれた瞬間から、独立の身体を持ったひとりの人間である。そのお腹から産まれたとて、私が両親「の」子供であると言えるようにはならない。誰かの子供であるということは何を持ってそうなのか、あまり理解できないのである。いわば私はずっと本物の家族と家族ごっこをしている状態なのだ。

 

 

 

関係は良好です

だからと言って別に家族仲は悪くない。それなりに円満であり、親のこともきちんと人として尊敬している。副反応で苦しんだら助けてくれ、そう言えるくらいには関係は良好である。ただこれから先、私自身が家庭をもつことは99%ないと思う(そもそも選択できる立場にないけど…)。他人をひとり多く地球上に存在させることになんの意味が?と思うからである。自分の子供ってなんやそれ。こちとら自分すら何か分からんねん。

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