底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ついに汚部屋を卒業した話といつもの生死の話

汚部屋卒業!

ついに汚部屋の脱却に成功した。お掃除ガチ勢の人が見たらどう言うかはわからないが、少なくとも八割の人が一目見て整理整頓された部屋だと言うくらいのキレイさになったと思う。自分でも掃除した動機はよくわからないのだが、ともかく本当に良かった。あと残ってるミッションと言えば、約百本のペットボトルを分別して捨てるくらいである...。

 

 

近づいている

shikouzakki.hatenablog.com

以前こんな記事を書いたことがある。今でも思うことは変わっていない。部屋がきれいになってまだ二日しか経っていないが、なんというか死というものをすごく近く感じられるようになった。これは今の私からすると端的によいことである。死より重大なことはない、私が人生において常に保持したい態度の一つだ。なぜならそれが私にとっての真実だからである。この二日はブログを書く時間と読書の時間以外はほとんど人生への思索にあてがっている。以前はyoutubeやアニメばかり貪っていたが部屋がきれいになってから、それらの悪癖もなぜかスッと治った。不思議ですね。

 

 

ぶんぶんぶん

いつ死んでもいい、と心の底から思うことは不可能である。生まれて生きている限りあらゆる「死にたい」や「死んでもいい」には欺瞞が含まれている。なぜなら人間には生の全てを知り尽くすことなどできないからだ。未知で未体験の生が常に残されているのだから、人には生についても死についても結論をだす権利などないのである。もちろん個人で信念として何かを掲げるのは自由であるが、どんな結論でも真実であると完全に言い切れば、そこには必ず欺瞞が生じているのだ(ブーメランぶんぶん)。

 

 

読めるけど書けない漢字の第一位は「鬱」だと思う

だから、私にできる最善は「死ぬのは嫌だけど他の生き方をしていたらもっと後悔していたに違いない」という生き方をすることである。部屋が片付いてからの生き方はまさにこれに当てはまっている。読書以外のインプットがなくブログ以外のアウトプットがないこの状況は、私史上最高の自己完結された生き方である。およそそれ以外の何もかもに興味がなく、それ以外の何もかもが気がかりでない。他人からしたらこの状態は端的に病んでいるように見えるだろう。毎日ほぼ同じことしかせず、誰とも会話せず、同じ場所に何時間も座ってボーっと考え事をする。身近にそんな人がいれば私もきっとこの人鬱始まってない?と疑うに違いない。だが他人にどう見られようと、やはり私にはこの生き方しかないのである。

 

 

最低賃金以下の給料保証しますよ

百本のペットボトルをすすいでラベルとキャップを分別するバイト誰かやりません?

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