底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正しく生きることとエゴについて

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人は正しく生きられない。生きることと正しさはすこぶる相性が悪いからだ。生きるとはつまり裏を返せば生かされるということであり、我々は常に数多の生物や自然環境を犠牲にし、先人達の生き様や努力の結晶と、今まさに隣で生きている他人に助けられながら、日々の生活を送っているのである。数多の生物や自然環境を犠牲にすることが正しいと、胸を張ってそう言えるだろうか。先人達の生き様や努力の結晶を無遠慮に借りその肩に勝手に乗ることを、今まさに隣で生きている他人に助けられながら生きていくことを、何の後ろめたさもなしに正しいとはとても言えないはずなのである。

 

 

2

生きるためには、そうする他に仕方がない。それが全てに対する我々の精一杯の答えではないだろうか。生きていくこと自体に正しさなどあるはずもない。偏に生物としての本能をそのままに叶えているだけに過ぎない。生きるは完全にエゴなのだ。そのエゴから目を逸らさない、蓋をしようとしない、あえて言うなら、それこそが唯一の正しく生きる道であろう。つまりは、生きることは正しいわけではないと自覚して生きるのである。

 

 

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完全にエゴであるから、例えば他の生物にできる限りの感謝をしてから食べるのも、もちろんエゴである。先人達の生き様や努力にこの上ない敬意を表してから、それを借りるのも、もちろんエゴである。他人に助けられた分、自分も他人を助けていきたいなどと心から思うのも、もちろんエゴである。エゴであることからは決して逃れられないのだ。生きるは絶対に正当化できない、正当化してしまえば絶対に正しくない。生きると正しさとはそのような捻れた関係なのである。

 

 

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だからこそ我々は常に問わなければならない。本当はどうしたらいいのか、どうすれば正しさに近づいていけるのか。正しく生きることができないなら、せめて正しく生きようと意志するべきなのである。それが生物としての本能なのだからと開き直ることも、エゴであるからとその全てを断罪することも、どちらも端的に正しくない。生きるは正しいわけではないけれど、だからといって正しくないと否定できるようなものでも、やはりないのである。

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しかし正しく生きようとして、その全てを問うていくのも、もちろんエゴのうちである。エゴの壁を突破して正しく生きることはどう足掻いても叶わない。正しさもエゴの前では、正しさを追い求めたいという個人的な欲求に成り下がる。「そうしたいのなら勝手にひとりでやってろよ」。そんな言葉で片付けられる程度の正しさしか、人は持つことができないのかもしれない。

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