底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

できるできないは方法の中だけで考える

グラデになってる

自分のできることできないこと、と一口に言っても、現実はそんなに単純明快ではない。できることの中には、すごーーく死ぬ気で頑張ればできることから息をするように片手間でできることがあり、できないことの中にはどう転ぼうが、逆立ちしようができないことから自分の心理的にちょっとするのに抵抗があるだけということがある。死ぬ気で頑張るはそれ自体滅多にやれるものではないし、心理的な抵抗は時に少しの勇気で乗り越えられる。できるとできないの間は常に曖昧で、きちんとした線引きは難しい。

 

 

甘えと欺瞞

ここに甘えと欺瞞の問題が絡んでくる。自分は甘えているのだろうか。本当はできることなのに、頑張りたくないからできないふりをしているだけではないのか。或いは逆に、自己欺瞞に陥っているのだろうか。本当はできないことなのに、さも頑張ればできるかのように振る舞って、自分の自尊心を保っているだけではないのか。できるとできないの狭間で、人はそんな自問を強いられる。元の線引きが曖昧であるために、簡単には答えを出せない。それに仮に出せたとしても、その答えに対しても、また同じ問いを問うことができるので結局は無限ループ。

 

 

できるできないの適用すべき範囲

だが、できるできないの線引きをしていくことには重要な意味がある。どう転んでも逆立ちしてもできないことに無駄な努力を注いでしまわないために、すごーーく死ぬ気で頑張ればできることを見逃してしまわないために。どこからができて、どこまではできないのか。それを考えることはやはりやめてはいけない。人生はさほど長くないのだから。有益に使わないと、あっという間に死が来てしまう。そうなのだ。つまりは、人生無駄にしてしまわないためだけにこそ、できるできないはその線引きをされるべきなのである。情念が絡んでくるような、自分を叱責するような視点での線引きなど、それこそ無益極まりない。

 

 

死は待ってくれない

人生を無駄にしてしまわないためにとは、自分の「したい」を叶える方法として、それは有効かどうか、だ。死ぬ気で頑張れば、自分はきちんとその通りに実行できるのか、或いは絶対に無理なのか。その見極めのためだけに、できるとできないを考えればいいのである。もちろん、死ぬ気で頑張らなくてもいい方法を探すのが先決ですけどね。それがどうも見つからなそうだ、となってからの話である。いずれにしろ、甘えかどうか欺瞞かどうか考えている暇は、人生には全然ないのだ。そんなことをしている暇があるのなら、どうしたら自分のしたいをちゃんと叶えられるのかをじっくり考えたい。死はいつもそこに佇んでいるのだから。

 

 

あなた年末の最後の最後までこんな話してて楽しい?

楽しい

 

 

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